「補佐役」としての秀長の真骨頂は外交力だったといわれるが、軍事力においても秀吉が全面的に信頼を寄せる、優れた力量の持ち主だった。その二つを惜しみなく発揮したことが、秀吉の天下一統を成功させたのだろう。「文武両道の名将」として有能だった秀長を取次として慕う大大名も多かった。(全10話中第7話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
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●秀吉が全幅の信頼を置く秀長の軍事能力
―― 秀吉軍団(羽柴軍団)の戦い方では、どうしても秀吉の戦略・戦術に焦点が当たりがちだと思いますが、秀長自身も戦上手かどうかという点、先生はどのように分析されていますか。
黒田 基本的には勝ち続けているので──もちろん敵よりも大軍勢を率いているというのはありますが──軍事能力は一定レベル以上あったのではないでしょうか。秀吉が全面的に信頼できるぐらいの能力はあったと思います。
―― (秀長は)その頃のいわゆる補佐役というか、副将のような位置付けになると思います。冒頭で聞いたお話では、外交交渉役としての見事さということが、特に晩年のお話としてありましたが、その時代はまだそれほど外交などはなかったでしょうから、秀吉にとって補佐役の力量というのはどの辺りが一番メインになってくるのですか。
黒田 軍事行動をしている場合には、(秀吉の)身代わりを務めて別軍団を統率していく。実際に長宗我部を降伏させたのは秀長ですし、九州攻めの際に島津の本軍にぶつかっていったのも秀長で、秀吉は手薄なほうに行ってしまった。島津の本家の鹿児島に向けて進軍したのですが、島津の本軍は日向のほうに在陣していた。そこにぶつかっていったのは秀長で、それを成し遂げられるのは秀長しかいなかった。だから、任せているということだと思います。
―― なるほど。
黒田 そうした大大名たちが服属してくると、政権とのつなぎ役を全て秀長が担って、政権につなぎとめる。まだ天下一統は成立していなくて、関東、東北は戦争状況ですから、政権につなぎとめる仕事がうまくできないと、島津などは反乱しかねないわけです。それらを、小田原合戦が終わるまでしっかりとつなぎとめていたということなので、(その功績は)非常に大きいのではないでしょうか。
●権威はあっても威張らなかった秀長の器量
―― また、これも武士の世界の話としてよくいわれますが、武士が相手を認めるにおいては、力量が自分より上か下かというのがかなり大きな問題だということが、武士道系の本に書かれています。やはりそれだけ武力の見事さ、戦争の見事さ、男としての器量などがある程度あったからこそ、冒頭で先生がおっしゃったように、「そんな人が、これほど優しくしてくれた」と感激するのでしょうね。
黒田 そうでしょうね。死んだ際の葬式のときに「文武...