天正19(1591)年、秀吉は子の鶴松と秀長が相次いで死去し、関白職を甥・秀次に譲り、太閤と呼ばれるようになる。これ以降、羽柴(豊臣)政権は迷走し、やがて崩壊へと向かうことになるが、それゆえ秀長の存在感が没後、よりクローズアップされることになったのは間違いないだろう。もし秀長があのまま生きていたら、歴史はどのように変わったのだろうか。今回は、朝鮮出兵の大失敗の意味、分権派対集権派という構図の真相など、秀長の死の影響とそこから秀吉政権瓦解へと進む背景について解説する。(全10話中第9話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
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●秀長の死が影響した朝鮮出兵の大失敗と調整機能の消滅
―― これはよく(いわれることで、)これまで物語上の話としても、あの段階で秀長が兄より先に死んでしまったことが、最終的な豊臣政権瓦解に相当効いてしまっている。一般にそのような話もよくされますが、それは全くその通りであり、それだけ大きな役割を持っている人だということになりますね。
黒田 そうですね。秀吉死後の政権崩壊の直接の理由はやはり壬辰戦争、朝鮮出兵の失敗にあると思いますが、秀長が生きていたら、多分あれだけ泥沼の戦争にはならなかったと思うわけです。
―― なるほど。
黒田 どこかで和睦をするなり(していたかもしれない)。要するに秀長は秀吉に意見を言える数少ない一人で、彼が死んだ後、みんな秀長ほど意見は言えないのです。しかも、意見が言えた人は徳川家康と前田利家と浅野長吉、基本的に弟分しかいない。
しかしながら秀長は本当の血縁なので、しっかりと意見は言えたと思います。だから、途中のどこかの段階で和睦して撤退というかたちにもなっていたと思うわけです。最終的には秀吉譜代の内部争いですから、それをコントロールすることができたのも、やはり秀長しかいなかった。
1960~1970年代あたりには、よく「集権派と分権派の対立」という学説が出され、結局家康のような領国大名と増田(ました)・石田のような奉行の対立のようなものが…。
―― 五奉行の…。
黒田 はい。そういう学説が出されて、それがいまだに研究上に影響を及ぼしているのですが、秀長を調べてみて、それは全くの嘘だということが分かりました。
―― そうですか。それはどういうことですか。
黒田 奉行たちは秀吉の子ども分なので、秀吉に意見を言えないし、秀吉が不快に思う案件は取り継がない。これは自分が怒られるからで、(現代の)会社でもよくある話ではないですか(笑)。
―― ありがちですよね。
黒田 …ですよね。だから、対立のしようがないわけです。そういう中で秀長は唯一、「奉行が取り継いでくれないので、自分にその仕事に対応しろという命令を出してくれ」と秀吉に頼んで、出してもらっている。つまり奉行の責任にならずに、「秀長が対応しろ」という命令に切り替わるのです。
―― なるほど。
黒田 あと、秀吉の決裁というのは、そうした奉行の合意で出されるのですが、奉行同士で意見が...