秀長は領国大名としてセオリー通りの統治を行い、領民にも慕われたという史料が残っている。そのリーダーシップは家来や領民への統制に長けていたことが新たな研究により分かったが、秀長が想像以上に有能だったことは間違いない。では秀長没後はどうだったのか。(全10話中第8話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●セオリー通りの統治をした秀長
―― いわゆる領国経営としては、どうだったのですか。
黒田 領国経営で最後に問題になってきたのは、大和と紀伊の統治です。これは、秀吉政権まで武家政権の統治下にちゃんと編成されていない地域だったので、秀吉は秀長に委ねた。秀長は数年かけて、それを見事に成し遂げたということなので、やはり領国統治の手腕、行政官としての手腕も、相当能力は高かったということだと思います。
―― 先生に以前「テンミニッツ・アカデミー」でお話しいただいたときも、大名がいかに百姓に気を使っていたかというお話をいただきました。秀長が発した文書の中でも相当、いわゆる「善政」といいますか…。
黒田 そうですね。
―― (そのことについて)書いたものが残っています。ある程度の大名はみんなそういうものを出すとは思うのですが、その中でも何か特徴的なこととして、先生が見て感じられているところはありますか。
黒田 実際のところ、あの時代、秀吉配下の大名の領国統治の内容についての史料は、ほとんど残っていないのです。
―― そうなのですね。
黒田 大名の領国統治の内容が史料に残るようになるのは江戸幕府になってからの話なのですが、そういう中で秀長が、領国大名としてセオリー通りの統治をしている。その中身は、北条が70年前に作り上げた仕組みがほとんどそっくりそのまま反映されています。北条が作り上げたものがスタンダードになって、それを他の大名たちが受け継いでいることがよく分かる事例ですね。
―― 今でもよく各県の行政などで「善政競争」ということを言ったりしますが、いいとなると伝播が速いわけですね。
黒田 そうですね。やはり新しい方法はすぐ取り入れられていく。みんなが真似していく。
―― なるほど。
●かつての統治を懐かしむ秀長没後の訴え
黒田 秀長が死んで、養嗣子の秀保が跡を継いで、秀保は翌年になると朝鮮出兵のために肥前の名護屋に行って留守になってしまいます。その留守のあいだに奈良の町人から奈良奉行に対する訴えが出るのですけれど、そこに「秀長の統治は思いやりがあった」と書かれていて、「今の統治は主人が年少で、しかも領国にいないので、家臣の不正がはびこっている」というのです。だからやはり主人がどういうスタンスで統治しているかが、家来にすぐ出てしまうのではないでしょうか。
――...