草履取りから異例の出世を遂げたとされる秀吉は戦嫌いで、情報通で、口八丁手八丁の人たらし…。織田家中での秀吉の一般的イメージはそう集約できるが、これらは後世に描かれたものに過ぎない。当時、出世するためにはあくまでも武功を挙げることが必須であるからだ。また、秀吉の出自は前田・柴田などと変わらないことが研究で明らかになっている。今回は秀吉出世の背景について解説する。(全10話中第4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●「草履取りから」の出世話の真相
―― (前回は秀吉の生い立ちについて聞きましたが、)今度は信長のいわゆる家臣になっていくプロセスに入ります。
一般的なイメージでは「草履取りから」という話もあったりしますが、そもそもあの当時は、尾張の中にもいろいろな織田家がありますし、織田信長の系列ではないところの織田家に父親は仕えていた。その秀吉が、どうやって信長のところに行くかというところなのですが…。
黒田 それは『太閤記』によると弘治2(1556)年ぐらいでしょうか。二十歳ぐらいのときに遠江の松下家に仕えていたのが追い出されて、生まれ故郷に戻る。そこは清洲領で、そこの殿様として存在するようになっていたのが信長なので、彼に仕えたという話です。
また、時期についても――他の史料ではもっと早い段階になっていますが――弘治2年に松下家に仕えていたのは間違いないようです。それを勘案すると、『太閤記』や『明智軍記』に書かれている永禄元(1558)年が、一番妥当性があるかと思います。
ただ、『太閤記』ではいきなり信長の前に行って、「自分は木下藤吉郎秀吉だ」と言って仕えさせてもらったというのですが、それはもうめちゃくちゃ(な話)です。別の史料では、同じ中中村の出身で信長の小人頭(奉公人頭)をやっている人がいたので、その人の紹介で奉公人にさせてもらったという話が出てくる。そちらはあり得る話なので、多分そういう経緯で、まずは信長の奉公人になったのではないか。これは、下級兵士にも届かない雑用係です。
―― そうすると、あの「草履取り」というのもあながち…(間違いではないと)。
黒田 そうですね。それは、江戸時代が進む中、どういう仕事をしていたのかというところで、思いついたのではないでしょうか。ただ、戦国時代の中では下級奉公人の仕事として一番よく認識されているのが「草履取り」なので、もしかしたら本当かもしれません。
―― なるほど。先ほど秀吉の父親は農村にはいるけれど、被官でいわゆる家臣になったとありましたが、そういう人でも1回出てしまうと、(再びは)なかなか家臣としては取り立てられないということになるのですか。もともとお家が違うということはあるかと思うのですが…。
黒田 清洲織田家は信長によって滅亡させられているので、全く伝手がない状態での仕官ということになると思います。
●異例す...