秀長はどんな経緯で兄・秀吉を補佐するようになったのか。これまでに語られてきた秀吉の物語では、脇役だった秀長について詳しく伝えるものは少なかった。今回、信長・秀吉・家康などに関連する史料と当時の習俗を照合していくことで、秀長の歩み、そして秀吉・秀長の役割分担の実態が浮かび上がってきた。秀吉同様の武闘派だった秀長は最初、信長の直臣だったが、兄の出世に伴い羽柴を名乗り、秀吉の与力として活動していく。今回は、その知られざる経緯について解説する。(全10話中第5話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
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●秀長が信長の直属軍団に入った経緯
―― ここまではずっと秀吉の話を聞いてまいりましたが、(今回は)秀長ですね。最初に秀吉が信長に仕えることになって、当然、その関係で秀長も仕える形になると思うのですが、両者の仕える年代や仕え方には何か違いがあったのでしょうか。
黒田 秀長が信長の家臣になった時期は全く分からないので…。
―― 全く分かっていないのですか。
黒田 分かっていないのです。初見の史料は天正元(1573)年で、秀吉が小谷領の計略を進めている段階ですが、そのときにはすでに秀吉に従って計略を担っていることが分かっています。ただ、その段階での立場はあくまでも信長の直臣なので、いつそうなったのかは分からない。
多分、秀吉が侍大将になり、独自の家来を抱えていかなければいけなくなった頃に声をかけて引き連れてきた(のではないか)。ただ、秀長は秀吉の家臣ではなく、信長の直臣に引き立てられてしまうのですが、そういうところですかね。京都に入る前の段階ぐらいではないでしょうか。
―― 今、信長の直臣というお話がありましたが、普通の感じでいうと、兄弟でもあるので、秀吉の直臣というか、下についてもおかしくないように思えます。信長につくというのは、何か信長軍団というようなものがあったのですか。
黒田 信長の直属軍団は「馬廻衆」というものになるのですが、それは大体直臣の次男や三男を引き抜いて編成しています。
―― なぜそういう人を引き抜くのですか。
黒田 長男はそれぞれの役割を受け継がなければいけないから、次男・三男で有能な者を自分の側近に編成するというのが、ごく一般的な戦国大名のあり方でした。前田利家も四男なので信長の馬廻衆になり、後で本家を継ぐという形なので、普通のことです。
秀吉が有能だったので、秀長も有能だったのが分かったのでしょうね。側近の家臣として馬廻衆を編成していた。だから、秀長の最初の名前は「長秀」で、この「長」はどう考えても信長からもらったとしか思えない。だから、信長の直臣であることはもう間違いないところですね。
―― なるほど。これは先ほどお話がありましたが、その時期の秀長がどうだったかについては史料がないので分からず、最初に出てくるのが小谷攻めの頃ということですね。それ以降は大体兄弟一緒に働くような形になるのですか。そうとも限らないですか。
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