規格外の出世物語として読み継がれてきた『太閤記』。その破天荒なヒーローとして描かれた秀吉像は、いずれもその時代の庶民の願望を映したものだった。今回の研究が明らかにしたのは、秀吉の父親についてで、半農半士の存在として織田家に支えていただろうということである。太閤神話と史実のあいだに横たわる秀吉の実像に迫る。(全10話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
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●秀吉・秀長兄弟の出自と父の秘密
―― では、この(豊臣)兄弟、秀吉・秀長兄弟の出自ですね。これも前回お話ししたように、ドラマによって父が違うとかいろいろな言われ方をしてきましたが、今の段階で史料を見ていくと、何が一番確からしい話になるのですか。
黒田 そうですね。これについては、今年(2025年)になって『羽柴秀吉とその一族』(角川選書)という本を出しました。
そこでは、江戸時代の中でもできるだけ時期の早い段階にできたものだけを見て、そこからどういう状況が見えてくるのかを検討したわけです。江戸時代も進んでいくと、どんどん話が作られていってしまうので…。
―― そうですよね。
黒田 面白おかしくなっていってしまうので、最も古い段階ではどういわれているのかを元にしていきました。だから、基本は小瀬甫庵の『太閤記』の話です。それと素材が多分共通して書かれているものが、『明智軍記』の中の秀吉の出生についての部分にあった。そこが基本的には一番良質かと考えています。
結局、父親は弥右衛門という人なのですが、この名前は後から出てくるのです。竹阿弥のほうが早くて、その後に弥右衛門という名前が出てきます。弥右衛門と竹阿弥では名前が違うので別人だという発想が、後の段階で生まれてきたのだと思いますが、早い段階は全て竹阿弥です。
ですから、弥右衛門と呼ばれている人の存在は分からないのですが、そういう名前があったとしても、両者は同一人物と考えるのが最も適切だと考えています。
―― これは、要は出家した後の名前とか、そういうものですか。
黒田 そうですね。弥右衛門の名前を出しているのは、『太閤素生記』という名前(の文書です)。このニュースソースは秀吉の知り合いの子孫ということになるので、そこそこ信用できると思います。そういう関係で、竹阿弥の名前ではなく弥右衛門という名前を伝承したのだろうと思います。
そこでは、「戦場で傷を負って村に戻ってきた」という記述になっているので、多分それを契機に出家したのではないかと思います。また、竹阿弥号を名乗っているので、宗派が時宗だと推定できるわけです。江戸時代の人はそれが分からなかったので、『太閤素生記』や『清須翁物語』などでは「同朋衆」だと表現しています。
―― 同朋衆というのはどういうもの...