●日中韓には歴史認識に対する隔たりがある
皆さん、こんにちは。本日は、戦後70年の歴史認識について話してみたいと思います。
ご承知のように、今年は第二次世界大戦、日本が敗戦・終戦を迎えてから、ちょうど70年になります。この70年を迎えるにあたって、安倍総理大臣は談話を発表しようとしています。その内容について、関係諸国、特に近隣の中国と韓国から、さまざまな意見、あるいは彼らなりの注文がついているということは、ご案内の通りです。
確かに世界のどの国民にも、自由に歴史を解釈する権利があります。しかし、自由に歴史を研究できるような政治体制の国ばかりではありません。自由に歴史を学び、解釈し、発言する権利を持つ政治体制は、公的なイデオロギーや公権力の厳しい統制によって、国民の歴史認識や歴史観を上から支配することが多いのです。
他方で、事実というよりも、強烈な思い込み、あるいは誇張などを含めた物語として歴史をつくる国も存在します。あえて申すならば、非常に厳しく、そして鋭い党内闘争を日々重ねているような国における中国共産党という支配政党の権力のあり方があります。あるいは韓国社会でも、日常的に私たちが目にする非理性的と思われるような非常に強い世論が時々沸き起こってきます。
●外交に持ち込まれる中国・韓国の歴史解釈
こうした中国や韓国の社会における歴史解釈のあり方や歴史との距離感は、非常に独特なものがあります。特に私たちにとって重要なのは、彼らが日本の近い過去、近過去を常に批判し続けるということです。日本を常に批判し続けることで、彼らは国内的な権力基盤を強化し、あるいは国際的な地位を向上させる。こういう形で、自分たちに有利なように勝負を図る。このために、歴史を外交に持ち込むということが常態化しています。
あえて申しますと、自分たちについては、善行や美しいこと、美辞をもっぱら力説し、日本については誤ったこと、あるいは悪事をことさらに強調する中国や韓国の姿勢を見ていると、唐代の歴史家である劉知幾 (リュウチキ)という人が書いた『史通』の、特に巻の7にある論説を、私はいつも思い出してしまいます。
劉知幾は、論語の教えというのは何かを論じるとき、やや厳しく論語のことを定義しています。劉知幾によると、父親が悪事を働いても子どもはその悪事を隠す、そこにこそ正直...