●「玄」とは、感性を駆使して見ることに通じる
日本で隆盛を極めた武道として、剣道があります。私の生徒には剣道の達人が非常に多くて、こういう人は老荘思想を非常に熱心に学びます。それはどうしてかと言うと、前の回で「玄」「見えないところを見る」ということを申し上げましたが、例えば「玄妙」などという言葉は老荘思想の最たるもので、その領域、心境に至らないと、剣も強くならないということです。
剣道の奥儀とは、免許皆伝と申しますが、それはどこにあるかと言うと、「前のように後ろが見えるかどうか」ということなのです。前は当然肉眼で見えるのですが、後ろも肉眼で見ているかのようによく見えれば、それはもう免許皆伝だということです。
しからば、では、後ろはどうやって見るのか。これは、気配や直感など、そういうもので見るのです。言ってみれば、人間に授かっている非常に微妙で、崇高な、上質なと言っても良いのですが、そういう人間の感性を駆使して見ていくという領域が、この玄人の「玄」の意味です。
●長谷川等伯の「松林図」に見る「描かないこと」の効果
長谷川等伯という人の「松林図」という松林の図があります。これは、長谷川等伯のふるさとである能登の松林を描いた絵だとされていますが、ご覧になっていただければ分かるように、松をほとんど描いていません。この絵を見た人は「ちょろんちょろんとしか松がないじゃないか」とおっしゃるのですが、これは、朝もやに煙っているのです。
つまり、いかに描かないかということが、むしろ多くのものを描いた以上の効果になるのです。つまり、見る人間からすると、「朝もやに煙っている」と言われれば、では、朝もやが晴れたら、どのぐらいの鬱蒼たる巨大な松林が現出することかといって、イメージがばーっと広がる。そのイメージが重要なのです。
●「見えないものを多くの人が見えるように提供する」というプロの概念
それに対して、例えば、西洋のゴッホの絵などを想起していただければ分かるように、西洋の方は全部描くのです。日本側はいかに描かないか。いかに描かないかということは、要するに、いかに見えないところを見る方に見てもらうかということです。
ですから、プロとしては「見えないところが見える」というところから一歩進んで、今度は「多くの人に見えないものを見させてあげる」というところに来るのです。そういう相互作用、要するに、送り手と受け手の共同作業のようなところにまで発展しているのです。
そういう意味では、例えば車なども、全部つくってしまわないで、ある部分からはつくり手と買い手の共作になっていくというようなことも、この「松林図」のような絵をヒントに出来てきます。そうすると、カスタムメイドの量産化ということも可能になるというヒントがここにあるのです。
要するに、これからの企業経営に対しても、今申し上げたようなプロの概念というようなものが非常に重視されるべきではないかと、私はずっと思っていました。
●西洋が東洋の「見えないもの」の意味に気づき始めた
ほんのこの10年ぐらいをさかのぼってみても、実は、西洋の方がもうこれに気が付き始めて、西洋から送られてくる英文の経営書などにもたびたび登場する言葉が、非常に東洋ならではの言葉になってきているのです。例えば、“invisible”とか、“intangible”とか、“inaudible”という、「見えない、形にならない、聞こえない」というものです。
例えば、“invisible assets”、つまり「見えない資産」が、実は企業を支えています。それは何かと言うと、信用、信頼、あるいはブランドなど、そういうものを言っています。このように、西洋の方が、見えない、形にならない、“invisible”“intangible”なものに対しての重視を喚起しているというのは、とても面白い現象だと思います。
●これからの企業に求められるのは、「顧客の心を読む」というプロならではの仕事
そういうことから言うと、これからの企業活動の最たるものに、今申し上げているようなこういう精神をもっと強化していく必要があるのです。それはどういうことかと言いますと、今までは顧客は何を望んでいるのかを考えて、ニーズやウォンツ、シーズといった言葉が使われていたのですが、私から言うと、むしろ顧客すら見えていない要求に応えていくというのが、実はこれからの開発のキーワードではないかと思うのです。つまり、そこにプロ性、私が言うところの玄人性があるわけで、顧客の心をうんと深く読み取って、「あなたが欲しいものはこれでしょ」と見せるという領域が、望まれているのではないのかなと思うばかりであります。
これまで印象に残る名品に、ウォークマン...