●仏教が説く「本来本法性、天然自性身」
前回の「見えないものを見る」に続く次のテーマで、「全ては自分の内にある」ということに入らせていただきたいと思うのですが、これをご説明するときに、一番いい言葉がまずあります。
これは、仏教というものが説いている人間のあり方というか、人間とはこういうものだと説いている言葉で、「本来本法性(ホンライホンホウジョウ)、天然自性身(テンネンジショウシン)」ということです。これは何を言っているのかというと、人間は本来、生まれながらにして本法性、つまり仏性(ブッショウ、ホトケセイ)を持っているものなのだ、もっと言ってしまえば、「衆生皆仏なり」という言葉があるように、人間は皆、もう仏なのだということです。さらに「天然自性身」というのは、もう生まれながらにして悟りということをしっかり持っているものであると説いているのです。
●道元が抱いた疑問
本来、人間はもう仏であり、悟りの要素も完全に持っているものだということを、仏教は説いているのです。そのぐらい人間は崇高なものであるということを説いているのですが、この話に非常に疑問を持った青年僧がいます。誰あろう、道元です。
道元は、この疑問に答えを見出すために、日本全国の名僧と言われる高僧の所に訪ね歩くのですが、なかなかいい答えが出ません。そこで、中国へ渡っていくのです。結果、彼は日本へ帰ってくるにあたり、どういう結論を得たかということですが、歴史というものがつくづくありがたいものだと思います。例えば、一緒に修行しないと分からないようなものであれば、私もこうたやすく結論を言うことはできないのですが、要するに、私が生まれて得た僥倖(ぎょうこう)と言いますか、道元が見出した答えが何年も後に分かっているのです。こういうのはありがたいものですね。
●道元がたどり着いた答え-修行の重要性
さて、この道元はどういう答えを得たのかと言うと、「いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と言うのです。「仏性は本来人間が持っているもので、皆、生まれながらにして仏でもある、しかし、修行をしなければそれは現れないものだ」と言っているのです。さらに、もう悟りの要素は持っているけれど、はっきり「ああ、悟ったな」ということがなければ、その悟りを得るということはないということなのです。ですから、非常に修行というものが大切になってくるということであります。
そういう意味で、道元は、「只管打坐(シカンタザ)」と言って、ひたすら座禅をせよと言うばかりではなく、食事をするのも、作務(サム)といってそのへんを掃除するのも全部修行だと説いているのです。
つまり、そういうことによって、はっきりと己の仏性と悟りの境地というものが得られると説いてくれているのです。これはありがたいですね。そういうことを言っていただくと、何のために仏教があり、あるいは仏教修行があり、座禅があるのかということが、よく分かってきます。
●茶の湯を通して、修行、悟りの概念を普遍的なものにした千利休
もう一つ、日本というのはすごいもので、これを自分なりに取り入れて、一つの真理として説いた人がいます。それが千利休です。
千利休は、正しくは今から申し上げるようには言っていないのですが、意義としてはこのように言うのです。これは、お弟子さんが「先生、茶の湯の心、わび茶の心とは何でしょうか」と、つまり、「何で茶の湯というものがあるのでしょうか」と聞いたのに対して、利休は、「仏法修行の心を体して悟りに至る道を歩むことが、わび茶の心なのだ」と言っているのです。
こうして禅の世界だけで生きてきた悟りという概念や修行という概念を、一気に普遍的にしてくれたのが利休なのです。茶の湯というのは、茶の湯のためにやっているのではなく、仏法の修行のようなもので、つまり、悟りに至る道を歩むことなのだ。禅僧は、それが専門だから座禅で悟るけれども、われわれはそうではないと言っているのです。われわれは茶人なのだ。茶人は茶人として、お茶、茶の湯によって悟るべきではないのかということを言っているのです。ここまで意義をぐっと広げてくれたのです。
●仏法修行の心が育んだ、日本独自の勤労観
そうすると、剣術の達人は剣術をもって悟りに至る。それから、料理人は料理をもって悟りに至るというように考えていくと、これが日本の伝統的な勤労観と相まって、「人間はなぜ働くのか」ということに対する非常に稀有な、あるいは崇高な答えをここで導き出していただいているのです。
その象徴が、鈴木正三の「四民日用(シミンニチヨウ)」です。何のために農家の人は農業をやるのですかと言えば、「一鍬一鍬南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱うべし」と言って...