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凱旋将軍として戻った「偉い先生」が戦後日本を変えた

第七章 歴史を愛する日本人の崇高な使命(6)「敗戦利得者」が強調した「暗い戦前」

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
瀧川幸辰(映画『日本の悲劇』、1946年、日本映画社より)
Wikimedia Commons
戦後日本で偉くなった人たちの中にも、「敗戦利得者」が数多くいる。この勢力が、いかに日本の戦後の言論を歪めてきたことか。戦後、凱旋将軍のように戻ってきた彼らがやったのは、ことさら日本という国の暗い部分だけをあげつらうことだった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第七章・第6回。
時間:07:53
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/21
≪全文≫
 シナや韓国などの「敗戦利得国」と同様に、戦後日本で偉くなった人たちの中にも、「敗戦利得者」が数多くいる。昭和20年(1945)8月15日の敗戦によって非常に得をした人たちである。この勢力が、いかに日本の戦後の言論を歪めてきたことか。

 たとえば憲法九条信者や護憲派が後生大事にしている日本国憲法(昭和22年〈1947〉5月3日施行)が、主権国家の憲法ではないことは、憲法学者なら誰もが知っている。日本は敗戦後にGHQの間接統治を受けていたから、日本国憲法はいわば間接統治基本法であり、それゆえ占領軍側の素人の集まりで一週間程度で草案ができあがったのである。

 日本の主権が回復するのはサンフランシスコ平和条約の調印(昭和26年〈1951〉9月8日)後であり、主権がないと憲法ができるわけがないことを、憲法学者が知らないはずはないのだ。

 ところがそれを憲法だと、憲法学者の宮沢俊義東大教授はいった。明らかに無理のある憲法改正であるにもかかわらず、「ポツダム宣言受諾によって天皇は国民へ主権を移譲したのであり、一種の革命である」などという愚にもつかない「八月革命説」を打ち出して正当化してみせたために、GHQの覚えめでたく、学界の地位を確立した。

 国際法学者・横田喜三郎東大教授も戦前からの社会主義者であり、東京裁判を熱心に擁護したことで自らの地位を固め、皇室否定も盛んに唱えていた人物であった。そのうち世の中が落ち着いてきたのを見て、天皇制を批判した自著を買い集めて廃棄したといわれる。そして、めでたく最高裁判所長官になった。

 このような人たちのことを、私は「敗戦利得者」と呼んでいる。

 京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授もそうだ。昭和7年(1932)に中央大学で行なった「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演や、無政府主義的主張を述べた『刑法読本』が危険思想とされ、その翌年に京大を辞職することになった「滝川事件」で有名な人物である。その彼が、敗戦の翌年である昭和21年(1946)、凱旋将軍のように京大教授に返り咲くのである。滝川氏はその後、法学部長を経て京大総長になった。滝川事件で連名辞職した人たちの多くが、同様に復職を果たしている。

 東京帝国大学経済学部助教授の大内兵衛氏も、人民戦線事件(昭和十三年〈一九三八〉)で検挙されたが、敗戦後まもなく復職した。

 かつて「東大の大総長」と呼ばれた東京帝国大学経済学部の矢内原忠雄教授はキリスト教徒で、プロテスタントとしては立派な人らしいが、マルキシズムの信奉者で、論文で政府の大陸政策を批判し、ある講演で「どうぞ皆さん、若し私の申したることが御解りになつたならば、日本の理想を生かす為めに、一先づ此の国を葬つて下さい」(『矢内原忠雄全集 第十八巻』)と述べたことがきっかけとなり、辞表を提出した。

 この言葉が、キリスト教の終末論に端を発する部分があることも理解できる。矢内原氏が私立大学の教授であったなら、あまり大きな問題にはなっていなかっただろう。

 案外いわれていないことだが、左翼運動や共産主義運動で辞めさせられた教授たちは、帝国大学に多かった。逆にいえば、「辞めた」のは帝大の教授だったからである。

 帝大は天皇陛下が建てられた学校だというのが戦前の概念である。一方、当時の日本共産党は、ソ連共産党の国際機関であるコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部であり、昭和7年(1932)に発表されたいわ...
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