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小早川秀秋と石田三成のエピソードにみる徳川家康の器量

徳川家康のリーダーシップ(2)関ヶ原から後継者選びへ

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
石田三成
 徳川家康が具体的に「天下取り」に動いたのは、「関ヶ原の戦い」以降のことだった。60歳を越えた家康の行動のどこに、現代のリーダーが学ぶべき「器量」はあったのか。歴史学者・山内昌之氏に解説いただく。(全2話中第2話)
時間:10:36
収録日:2017/04/05
追加日:2017/05/17
≪全文≫

●「盾裏の反逆」と呼ばれた小早川秀秋の裏切り


 皆さん、こんにちは。

 徳川家康がいかに器量人であったかは、最近も触れられることが多いのですが、関ヶ原についても、触れたくなるエピソードが多いと思います。関ヶ原合戦では、家康以外に主要な登場人物が二人います。一人は小早川秀秋、二人目はやはり何といっても石田三成でしょう。

 小早川秀秋は、ご案内のように太閤秀吉の甥でありながら、松尾山に陣を敷いて合戦には途中まで加わらず、西軍を裏切って東軍(家康方)についたことでよく知られています。これを裏切りとか「返り忠」と呼ぶのですが、もちろん戦国の武将、総じて大名武将にとって返り忠や裏切りそのものは、悪いはずがありません。政治の世界では、「裏切る・裏切られる」というのは現代においてもあることで、ましてや軍事です。「家」というものがあり、家に仕えている「家臣」をどのように食べさせていくか、家族をどう維持していくかは、いつの世も大変なことです。

 ところが、「裏切りよう」というものがあるということでしょう。実際に戦場に出る前にはいろんな交渉ごとがあり、合従連衡が行われるのは確かなことです。しかしながら、戦場に入ると陣立を組んで「盾(たて)」というものを向けるのですが、一旦そうした陣立が済んでから味方を裏切るのは「盾裏の反逆(裏切り)」と呼ばれ、戦国の武将たちが一番忌避したものです。

 事前ならいいのです。しかし、戦が始まって、それを後ろから襲い、あるいは側背から突いて、しかも戦局に対する決定的な影響を与えるような卑劣な盾裏の裏切りの代表的な存在が、小早川秀秋だったわけです。


●内府徳川家康と金吾中納言小早川秀秋の接見


 そのため小早川秀秋は、後世まで悪名を轟かせることになりました。しかもその後、彼が自分のしたことに関して「今日の関ヶ原の戦功第一は俺だ」と堂々としていれば良かったのです。「自分が内府(内大臣徳川家康)に勝利を謹呈したのだ」と胸を張って言えばいいところを、家康の門前に行った秀秋は、なんと芝の大地にひざまずいて挨拶をしたということです。

 小早川秀秋は、当時「金吾中納言」という三職の一つに就いていました。「金吾」とは「左衛門督」の中国流の呼び方であり、「中納言」は非常に高い公達(公卿)の位を持つことを表します。内大臣は格上とはいえ、芝にひざまずくような身分の違いは到底ありません。

 それが、このようにひざまずいたのを見て、豊臣の旧臣である福島正則や黒田長政、細川忠興たちは皆、嫌な気分になったといわれています。内府、すなわち徳川家康がまだ征夷大将軍にもなっていないのに、中納言の身でありながらそれに屈服するさまが極めておかしいと皆、思ったのです。

 それについて、福島正則が「やはり、あれはおかしい」と言ったところ、黒田長政は「いや、鷹と雉(きじ)の出会いだと思えば済むことだ」と笑ったといいます。福島は、「それはひいき目の比喩だ。鷹と雉どころではなく、鷲と雉ほども違う。鷲の方が格上だ」と笑ったといいます。


●捕えられた石田三成に対する家康のリスペクト


 小早川が芝にひざまずいた時に、徳川家康としては当然、「これで事実上、豊臣の天下は終わった。豊臣秀吉の歴史的な遺産が食いつぶされた」と感じたに違いありません。他方、家康の石田三成に対する態度は違っていました。

 ご案内のように石田三成は、関ヶ原の野戦において、勇将である島左近や蒲生郷舎たちを縦横に使いながら、最後まで戦い抜きました。戦下手で知られていた三成が敢闘し、最後の最後まで家康を苦しめたことは、関ヶ原戦史においてどうしても特筆しておくべきことかと思います。

 三成は腹痛に苦しみながら逃げ延びて、再挙を図ろうとしました。その彼が木こりの姿で苦しみながら捕まった時、人々は「治部(治部少輔=三成)は見苦しい」とささやきあったのですが、家康は違う反応をしました。

 「そうではない。生き抜いてこそ、何事をも成し遂げられるものだ。大望を思い立つ身には、一日の命も大切だ。これは未練ではない」と三成を弁護して、彼に衣服や食料を与え、「病気ならば医者にも診せよ」と命じたのです。

 『徳川実紀』の中の『東照宮御実紀』という徳川家康に関わる記録の中には、「三成も涙を流して、家康の思いやりに感動した」という節が、虚実はともかくとして残されています。

 こうして家康は、秀秋と三成というまったく性格の異なる武将との劇的な出会いと別れによって、天下取りに邁進していったわけです。


●後継者選びや天下取りに表れた家康の「器量」


 家康の優れている点は、誰を後継者にするかということにも表れました。彼が秀忠を選んだ理由は、「争乱の時は武勇をもって主君とするが、平和な天下を治め...
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