●防災対策を見直す必要があった
そのような中でこれまでの防災ですが、われわれは「ハザードマップを見てください。可能性としてこれだけの浸水の可能性があります。いち早く避難をしてください」と言いながらも、本当にそのようにすぐに避難できる社会になっているかというと、われわれが求めているものと現実社会の間に少し乖離があるように思えてならないのです。
何か今、日本の防災は根本的なところを見直さなければいけない時期に来ているのではないかという、漠然とした思いを持って現地を見てきました。
そして、2018年の7月豪雨については200人を超す多くの犠牲者が出たということもあって、内閣府中央防災会議の中に「平成30年7月豪雨による水害・土砂災害からの避難に関するワーキンググループ」という作業部会が立ち上がり、私はその委員になりました。
7月豪雨ですから7月にあり、そして12月には報告書が出るということで、非常にスピードのある議論が展開されました。議論は3回行われたのですが、その中で最初の会議の時に、私は冒頭で発言しました。
●いくら対策をしてもリスクはゼロにはならない
私は防災研究者になって、20年ぐらいになります。当初より、このように災害があるたび、何が問題であったのか、課題であったのかを真摯に反省し、対策を強化する、すなわち課題を抽出し、対策を講じることを繰り返してきました。
そして今回の7月豪雨に関してもまた反省があるでしょう。対策が講じられるでしょう。しかし、こういう議論の仕方をしていて、10年たったとき、本当に災害はなくなっているのだろうか。私はきっと同じ議論をしていると思います。災害は毎回、毎回、手を替え、品を替え、やってくるわけです。前回の反省に基づいて対策を強化し、その対策を積み重ね続けてきて、今日、なお災害があるというこの状況を見ると、議論の仕方を変える必要があるのではないでしょうか。
災害は、もちろんそこに学び、教訓を得ることは大事なことだと思います。しかし、教訓とは過去の災害に学ぶ対処の処方箋です。それを超えてくる災害に対しては、その処方箋が有効である保証はありません。
過去の災害に学んで、講じた策をもって対策を行うことは、それ自体必要ではあるものの、それをもって万全と考えることは間違いだと思います。どれだけ対策を講じても、相手は自然です。ゼロリスクはあり得ないのです。
●リスクがゼロにならないならば、災害に備える社会をつくる
であるならば、対策を講じつつも、ゼロリスクに対して社会がどう向かい合うのかという根本の議論が必要なのではないのか。どれだけ対策を講じても、やはりちゃんと逃げるという社会は堅持しなければいけない。社会の対応として、リスクに向かい合える社会を堅持しなければいけない。これが、初回の会議における私の冒頭発言でした。
10メートルの堤防をつくっても、20メートルや30メートルの津波が来た東日本大震災がありました。確かにそれを考えるときに、ハードをどれだけ対策をしても、あくまでそのレベルまでしか守られていません。それを超えるものについては対応できていないのです。
情報についても、気象庁は本当に誠心誠意、災害のたびに「こんな情報だったら出せる、あんな情報だったら出せる」ということで工夫に工夫を重ね、多くの情報を出すようになってくれました。
しかし、現実に今、気象庁の情報を見ても、山のような情報が出るようになったのですけれども、国民は果たしてどこまでその情報を理解できるのでしょうか。われわれ専門家ですら、これだけ多くの情報があるとなると、災害が起こったその日、その時に活用できるかということになると、自信がないというところもあります。そんな中で、「災害がある・反省する・対策を講じる」という連続の中に議論することの問題点を指摘したつもりだったのです。
そこで、やはり対策には限界がある、そして相手は自然で、ゼロリスクはないということになるならば、最後に重要になるのは、しっかり備えるという社会のありようで、それが求められるだろうと思います。
●行政サービスから行政サポートへ
ところが、日本の防災はこれまで行政主導で行ってきました。そのような中、逃げるというのは、やはり国民一人一人の意識の問題で、それはその日行動を取るのが国民一人一人だからです。どこかへ逃げなければいけないとき、それを行政が教えてくれるというような依存心、そうした他者に委ねる気持ちがあったのでは、その日その時すぐに逃げることはできないと思います。
万が一のことを考えて、逃げておこうと思えるだけの災害に向かい合う当事者観というものを国民にどう植えつけていくのか...