●実際に人々が逃げることができるようにしなければいけない
災害があって、検証の委員会が持たれますと、おおむね議論の方向は同じです。大抵は、まず十分な意識がなかったという、住民の防災意識の低さから、知識がない、適切な情報が届けられなかった、また避難路、避難所はどうかといった、知識の問題、情報の問題、避難路、避難所の問題というところに議論が終始します。
また、住民の皆さんにハザードマップをしっかり見ていただくようなキャンペーン、防災教育を充実しなければいけない。防災意識を高めるための講演会をやらなければいけない。情報は適時、適切に出せるように行政は努力しなければいけない。避難所も、避難路も整備しなければいけない。そういった議論だったのです。
でも、私はこの議論の仕方に多少の疑問を感じています。確かに命を守るためには知識も必要です。情報も必要です。避難路も避難所も必要です。しかし、これまでの議論はここで止まっていました。果たして、知識があったら、防災意識が高かったら、情報があったら、避難路があったら、人は逃げられるのでしょうか。
例えば東日本大震災では、多くの方が亡くなりましたけれども、沿岸部の人たちは地震の後に津波が来ることは知っていました。津波の後、避難をするには1秒でも速く、1メートルでも高いところに逃げなければいけないことも、皆さん知っていました。しかし、そうであっても、逃げなかった人、逃げられなかった人はたくさんいます。そのため、多くの命が失われています。
●人は大事な人のことを考えたときに逃げられなくなる
私は避難の問題を研究し、避難できる社会の在り方について研究していく中、これまで多くの災害現場に立ち会ってきました。大変つらい作業なのですが、亡くなった方がどうして亡くなったのかも調べました。その中で、やるせない気持ちになることが何度もありました。
例えば東日本大震災の日、地域の若き消防団員が高台まで駆け上がってきました。「おじいちゃん、いるか」と、おじいちゃんを探しました。おじいちゃんはいませんでした。その消防団員はおじいちゃんを迎えに行こうとしました。もちろんみんな止めます。「津波が来る。行くな」というわけですが、この状況の中で、おじいちゃんが今いないということは、おじいちゃんの死を意味します。職責を全うしようという責任...