●阪神・淡路大震災以後も従来の防災は継続された
行政は阪神・淡路大震災があったからこそ、構造物の耐震性を強めたり、堤防を高くしたりということで、ハード対策を強めてきました。一方、住民の中には、行政の対応に限界があるということで、ソフト対策も大事、情報も大事だからそれらを確認しつつも、自らの避難については自らが判断するというような、自助の意識ができてきたと思うのです。
しかし、これまでの長年にわたる過保護状態の中で、具体的に自らがどういう行動を取ればいいのかというところまで、思いは至らなかったのでしょう。行政がハード対策ということでその強化を進める中、住民は自助ということが何を意味するのか、具体的にどう行動すればいいか、よく分からないまま、それ以降を過ごしたのだろうと思うのです。
われわれも、研究者であり技術者であるわけですから、科学によって解明し技術によって災害を抑止するという、その基本構造を踏まえ、そうした方向性を目指すわけなのですが、阪神・淡路大震災の経験にさらなる研究費の積み増しを求め、研究に邁進してきたわけです。
●東日本大震災は強化するという従来の防災の限界を示した
ところが、こういった従来の防災を、住民レベルでも、行政レベルでも、またはその額のレベルでも、ただただ強化するという方向性に根本的な最終通告を突き付けたのが、東日本大震災だったと思います。
10メートルの堤防を造りました。しかし、津波は20メートル、30メートルをはるかに越え、堤防をしのぐものでした。膨大な犠牲者が出ました。情報も適時適切に出すということにはなってきていたのですが、これだけの大津波を予測することができませんでした。よって、情報が全て適時適切だったかというと、そうでもありませんでした。情報にも限界があるということが分かりました。
住民の皆さんも阪神・淡路大震災以降、自助が大事だという意識はあった。しかし、あの時、何をすることが自らの自助を高めるかということに思いは至らなかったのだろうと思うのです。
阪神・淡路大震災以降、日本における自助の意識の芽生えは確かにあったのですが、それが向かった方向は、「絆」という言葉に象徴される、被災した後の助け合い精神の議論でした。
阪神・淡路大震災は「ボランティア元年」ともいわれ、お互いに被災者を助け合うというような、非常に温かい社会を取り戻すことができたように思います。
しかし、「絆」論で語られる自助の世界は、生き残った人のための防災です。それは本来、人間が持っていなければいけない、あるいは地域が持っていなければいけない、お互い助け合うという精神で、それを失くしていたため、取り返したにすぎません。自分の命は自分で守るということだとか、そのことにしっかりと対応するという、その主体性のところに及んだ議論と絆論は無関係です。
確かに、助け合うという絆論は、東日本大震災においても、あるいはその後の災害においても、本当に助け合うということができるようになったという意味では、日本の防災は改善されたとは思います。しかし、それとは別にまだ、命を守るということにはつながっていないというのも事実なのだろうと思います。
そうした状況の中、日本の防災は東日本大震災によって、ハードの限界を痛いほど突き付けられました。行政の限界も明確になりました。そして、情報、ソフトの限界も、です。住民も本当の意味で、自らの命は自ら守るという意識を痛烈に求められるような状況を認識するようになったと思います。
●思想なき防災の混迷状態にあるのが日本の防災の現実
ただ、そのために具体的にどうしたらいいのか。それが分からないということで、ある意味、方向性を失った、思想なき防災の混迷状態にあるのが日本の防災の現実のような気がします。
荒ぶる自然災害の中で、対策、その経験を積み増していかなくてはいけません。ハード面を積み増すことも大事でしょう。きちんと対応する意識を持たなければいけないということも確かなのでしょう。けれでも、具体的にそれをどうしていったらいいのかということに対する処方箋が示されないまま、ただただどうしたものかという混迷状態にあるのが日本の防災のような気がします。
●行政と住民からなる地域社会で防災に取り組む必要がある
日本の従来の防災の仕組みを根本的に変えなければいけないと思っています。災害対策基本法の枠組みは、災害に向かい合うのは行政であって、その庇護の下に住民がいるという、お団子のような構造になっているからです。
しかし、災害は行政の守る範囲を越えて、住民のところまで届いてきて...