●最晩年、弟子の求めに応じて記された『一枚起請文』
―― 今回は、法然の次の文章に行きたいと思います。これは『一枚起請文』というものですね。まず冒頭のところを読ませていただきます。
「唐土(もろこし)・我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又、学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて申す外には、別の子細候わず。」
賴住 はい、そうですね。まず、「唐土・我朝に」とありますように、中国でも浄土教の教えは非常に盛んでした。中国で盛んだった浄土教の教えが日本に入ってきて、こちらでも盛んになっていったわけです。ですから、中国でも、また「我朝」=日本でも、浄土の教えについて学び、経典などを中心に研究するお坊さんたちはたくさんいました。
その人たちが「沙汰し申さる」すなわちいろいろと言っているのは「観念の念」だということです。「観念の念」というのは、先ほどから申しておりました「観想念仏」の話です。「その観想念仏のことを私は言っているのではない」と、法然は始めています。
この『一枚起請文』という文章はどういう種類のものかと申しますと、法然がもう最晩年に入って亡くなる寸前に、自分のお弟子さんから「教えの一番の要点を教えてください」といわれた時に書き残したものと伝えられています。
この文章が本当にそのとき書かれたものかどうかということについては、文献学的には異論もあろうかと思います。ただ、法然の教えの要点がどこにあったかということは、この『一枚起請文』の中に非常によく表現されていると思いますので、味わって読んでみたいと思います。
●学僧・法然が理論より念仏を重視した理由
賴住 そこでまず言っているのが、「観想念仏の念ではない」という話です。さらに次の「学問をして念の心を悟りて申す念仏」でもないというところで、念仏に対する学問というものがいろいろある中で、細かな議論がいろいろ行われていたことが分かります。
法然自身は学僧としても非常に有名だった方で、「一切経」を何度も読んだと伝えられています。「一切経」とは、インドや中国でつくられたさまざまなお経を全部まとめ上げたもののことで、膨大な量があります。それを何回も読んだと伝えられているぐらい、法然という方はよく勉強された方ですし、当時の人に「智慧第一の法然坊」といわれていたぐらい、学問を究めた僧侶でもありました。
その方が、「学問とかそういうところで論じているような念仏ではないのだ」ということを、亡くなる寸前にはっきり明言されているということは、専修念仏の教えを考えていくうえで非常に意義深いことではないかと思います。
では、どうなのかというのが、「ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思とりて申す外には、別の子細候わず」というところです。要するに、往生するためには「南無阿弥陀仏」と言えば、もうそれでいい。それ以外、何も必要ないということを、最後の最後にも、もう一度、繰り返しておっしゃっているのです。
法然の周りに集まってきたお弟子さんたちというのは、やはり仏教のさまざまな学問を身につけている方なので、とかく理論的なところで考えがちなところがあると思うのですね。ですけれども、「最後はもう念仏を唱えるだけですよ」ということを、きちんとお弟子さんに言っているところに法然の本領が発揮されているな、と強く思います。
●法然が初めて言った「専修念仏」の教え
―― 最後の「別の子細候わず」というのは、南無阿弥陀仏と唱えること以外に細かい決まりはないのだということかと思うのですが、これも非常に強い言葉ですよね。
賴住 そうですね。やはりお弟子さんたちにどうしてもこれを言っておきたいということが、とても強くあったのだろうと思います。
法然の死後、彼の念仏信仰の考え方については、いろいろな解釈が出てきて、いくつかのグループに分かれていきます。法然としては、それを見越していた、理論的な解釈の違いによって弟子たちが様々に分かれていくことは、ある程度見えていたのだろうと思います。そうであっても、やはり一番大切なのは「南無阿弥陀仏と唱える」そのことなのだということは、どうしても言っておきたいことだったのではないかと思います。
―― この文章の最初に「唐土」(中国)の話がありましたが、中国の浄土教的なものをさらに突き詰め、研ぎ澄ましていったのが日本だけということになるわけでしょうか。
賴住 はい。おっしゃる通りで、専修念仏の教えというのは、法然が日本で初めてつくり上げたといいますか、唱えたものです。中国...