●生死輪廻の世界観に立ち向かう『選択本願念仏集』
―― それでは実際に法然の文章で、何をおっしゃったかということに迫ってまいりたいと思います。まず最初にご紹介するのが『選択本願念仏集』です。
これは結文ですので、一番最後の部分でしょうか。
賴住 そうですね。最終章になります。はい。
―― では、読み進めてまいります。
「それ速やかに生死(しょうじ)を離れむと欲(おも)はば、二種の勝法(しょうぼう)の中に、しばらく聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲はば、正雑二行(しょうぞうにぎょう)の中に、しばらくもろもろの雑行を抛(なげす)てて、選じてまさに正行に帰すべし。」
これはどういう意味になるのでしょうか。
賴住 はい。まず、「それ速やかに生死を離れむと欲はば」でいわれる「生死」は、「生死輪廻(しょうじりんね)」を意味しています。これは仏教の基本的な世界観・人間観で、「悟らなければ、輪廻転生をし続けなければいけない」ということです。生死を繰り返し、生まれて、死んで、生まれて、死んでということを、ずっと繰り返していかなければいけないというふうに考えるわけです。
そして、人間にとって生きているということは非常に苦しいことだというのが、仏教の基本的な考え方です。よく「生老病死」を「四苦」などといいますが、人間というもののあり方を考えていくと、生まれて、老いて、病んで、死んでいかなければならない運命にある。つまり、どんなに一時的に楽しいことがあるにしても、最終的には苦しみの中にいると考えていくわけです。
苦しみの「生死輪廻」が繰り返されていくのが人間の実相なのだ、という人間に対する基本的なおさえが、まず述べられています。
●輪廻転生を離れ、救いの道を得るための方法
賴住 迷いや苦しみから抜け出していこうとするときに、「二種の勝法」がある。「二種の勝法」というのは、その後に出てくる「聖道門」と「浄土門」のことを指しています。
―― これはどういうものになるのですか?
賴住 中国でも日本でも、仏教の教えをある基準によって分けていくということが行われました。これを「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と呼んでおります。要するに、これはさまざまな教えを、いろいろな基準によって分けていくという意味です。それぞれの宗派によって、いろいろな教相判釈をしていくのですが、浄土教の場合には、浄土門と聖道門という分け方をしました。
浄土門は、阿弥陀仏信仰に基づく念仏の教えで、法然にとっては自分の信奉している教えです。聖道門は、それ以外の教えということになります。
―― 例えば天台宗とか、そういうことですね。
賴住 そうですね、そういうことになります。仏教の中にはその二つの教えがあるということをまず押さえたうえで、その二つの内で、浄土門のほうを選んで入りなさいということをいわれました。
―― 先ほどいわれた輪廻転生から離れることを主眼や目的にするならば、浄土門を選びなさいということですね。
賴住 そうですね。「輪廻転生を離れて、救いの道を得たいと思うならば」ということです。
●「末法」において選ぶべきは「浄土門」
賴住 では、なぜ聖門(聖道門)はさしおかなければいけないかというと、源信のシリーズでもお話ししたように現在は末法であって、末法の世では浄土門以外の教えは有効ではないと言われるからです。
もちろん聖道門も釈尊の教えであるという意味では、非常に大切な教えではあるのだけれども、今の時代には浄土門でしか救われないのだという判断になるかと思われます。
―― 末法ということですけれども、末法が非常に大きな意味を持ってくる。前回の源信のときもそうでしたが、もう一度、その末法というのは、どういう時代把握になるのでしょうか。
賴住 はい。末法といいますのは、仏教の独自の時代把握になっておりまして、「正法(しょうほう)」、「像法(ぞうほう)」、「末法」と時代を三つに区分しています。
「正法」は、正しい法と書きます。仏教の教えがあって、それに基づいて修行して悟りを開くことができるという、一番いい時代。釈尊が亡くなって五百年または千年は、そういういい時代が続く。釈尊の教えがそれだけ色濃く残っているということなのです。その後の時代が「像法」になります。「像法」の「像」は、漢字で、想像の「像」、人偏に「象」という字を書きます。
この「像」というのは「似て非なるもの」ということです。「正法」の時代に似ているけれども、修行しても悟りが得られない時代ということで、「正法」が終わってから五百年または千年。お経によって年数は違いますが...