●「鎌倉仏教」の成立と重なる法然の生涯
―― 「日本の仏教の名僧・名著」シリーズの続きとしまして、今回は法然に入ってまいります。
賴住 はい。
―― 法然は1133年にお生まれになり、1212年に亡くなられています。教科書的にいうと、まさに「鎌倉仏教」と呼ばれる時代に入る頃かと思われますが、この法然という方は、どのような人物なのでしょうか。
賴住 はい。法然は「専修念仏」ということで、よく知られているのではないかと思います。前回の源信とのつながりで申しますと、両者とも「念仏信仰」「阿弥陀仏信仰」という点では共通しております。
源信という方は、比叡山の天台宗で勉強されています。ご自身の意識としては最後まで天台宗の僧侶であり、そのことをベースにして念仏信仰を展開していった人です。彼の念仏信仰については、「天台浄土教」などとも呼ばれております。
法然は最初比叡山に入って、天台浄土教を勉強していました。ですから、源信の影響は非常に強く受けていますし、生涯、大変源信を尊敬していました。そういうつながりは非常に深かったわけですが、専修念仏自身は、天台浄土教とは大変大きく違っています。どういうところかと申しますと、天台浄土教では「観想念仏」をメインに置いていた点です。これはインドや中国の浄土教でも基本的には同じです。
―― 源信のシリーズで先生にご説明いただきましたけれども、「観想」というのは、実際に例えば阿弥陀仏のお姿を頭の中で思い浮かべたり、白毫相という額についた仏さまのマークを思い浮かべたりするなど、いろいろなことを教えていただきました。それらとはまた違うということになるわけですね。
賴住 はい、そうです。
●「観想念仏」から「口称念仏」へ、法然の革命性
賴住 「観想念仏」をするのは、浄土教の信仰をする人にとって非常に重要な修行でした。しかし、法然はそれをしなくても構わないという形を取ります。
もちろん、源信も、観想念仏を重視しつつも、口称念仏でも構わないとは言います。源信によれば、観想念仏をするためには生活のゆとりもなければならないし、心のゆとりもなければいけない。また、何かを思い浮かべて、ありありとそれが見えてくるためには、いろいろな才能や何かが必要になってくると思います。そういうものがない人は「口称念仏でもいいですよ」と言ったのが源信でした。
それに対して、「口称念仏だけで全ての人が救われるのであれば、もう口称念仏だけでいい」というのが法然の考え方で、「専修」という言葉が「口称念仏だけでいいですよ」という意味を表しています。これは、インド・中国・日本と流れてきた浄土教の中では、それまで全く言われることのなかった、非常に独自の信仰ではないかと思います。
―― 法然の場合、奈良や比叡山など、あちこちに行って仏教研究を行い、ご自身の修行と研究を積み重ねたうえで、その境地に至ったということになると思うのですが、その境地に至る理由といいますか、なぜそこだけに集中するということが出てきたのでしょうか。
賴住 はい。そこが法然の一番大きな特徴になるかと思います。大乗仏教は「一切衆生の救済」を強く打ち出していくのですが、法然の場合、一挙に全ての人を救うためにはどうしたらいいかというところに集中していきました。そうなったときに出てきたのが、念仏をすればあらゆる人が救われるということです。あらゆる人が口称をすれば、それで全員救えるというお考えだったと思います。
ですから、大乗仏教の精神というものを、法然が自分なりに突き詰めていったときに出てきたのが「専修念仏」であると考えられるのではないかと思います。
●異端的な教えとして流罪となった法然だが、全くめげなかった
―― 法然の場合、晩年近くになって、いわゆる弾圧を受ける体験がありますね。源信については、あまり弾圧されたという話は聞かないのですけれども、なぜ法然の場合は弾圧されることになっていくのでしょうか。
賴住 はい。法然が唱えた専修念仏の教えというのは、当時の人から見ると、やはり異端になるわけだからです。
標準的な教えとして、念仏信仰の中では、観想念仏を中心とした天台浄土教や、奈良の方の南都浄土教というものがありました。そこで大切にされる観想念仏をいっさいしなくていい、専修念仏だけに集中していくというのは、当時の人にとっては異端的な教えと考えられました。それで、とくに比叡山などが反発し、最終的には弾圧ということになっていったわけです。
―― 彼は強制的に還俗(げんぞく)させられて、土佐(高知県)に流されるということになるわけですよね。
賴住 そうですね。僧侶としての資格を剥奪されるのは、お坊さんにとっては、...