●2代将軍・徳川秀忠の庶子として生まれた保科正之
皆さんは、保科正之という人物について、お聞きになられたことがおありでしょうか。
保科正之は、徳川幕府をつくった家康の息子、2代将軍・秀忠の庶子として生まれた人物です。すなわち、家康の孫ということになります。3代将軍・家光の弟、そして、駿河大納言・忠長の弟ということになりますが、母親は淀君の妹であったお江与ではありません。お静という女性で、秀忠が生涯、正室であるお江与以外の女性との間に、ほとんど例外的にもうけたとされる子どもでありました。
この保科正之について、今回なぜ触れたいかと申しますと、保科正之の生き方は、政治家として、あるいは、社会的に責任を持つエリートの姿として、ひいては、人間一己の生き方として、ずいぶんと私たちに教えてくれるものがあるからです。
●家光は、正之が謙虚で思いやりが深く、信頼に足る人物だと知る
保科正之は、父親が将軍でありながら、生まれると同時にすぐ外に出されます。そして、秀忠の庇護を離れて生きていくことになりますが、それは、お江与が本来非常に悋気 (りんき)のたちで、嫉妬深い人物であったということも左右しています。
保科正之という名前が示すように、彼は、やがて信州、高遠(たかとう)の藩主、保科家に養子として迎えられ、そこで成長します。したがって、保科正之が、将軍・家光や忠長の弟であるということは、誰もが知らないままに成長するのです。
ところが、ある日、家光は自分に弟がいるということを知って、この母親が違う腹違いの弟をそれとなく観察します。そうすると、この弟は非常にものにおごらず、そして、他人に対し謙虚であり、かつ、思いやりが深く、そして、何よりも将軍である家光に対して非常に忠誠を誓う、まことに信頼に足りるあっぱれな人物だということを知るに至ります。
さらにいろいろと観察していきますと、この正之につきまして、その人格や人柄がともかく素晴らしいと人々が皆評価するということを知って、この人物は、ひょっとして自分の子ども、すなわち、4代将軍になる家綱、あるいは、将来の徳川家、徳川幕府を託するに足りる人物ではないかと思うに至ります。
●臣下の礼を怠った実弟の忠長に切腹の悲劇
家光には、先ほど申しましたように、忠長という同じ腹から生まれた、お江与の子であった弟がいましたが、この人物は、ご案内のように秀忠とお江与にかわいがられて、そして、非常にわがままに育つことになります。
そのため、忠長は、兄、あるいは、将軍としての家光に対して、ともすればないがしろにするところがあり、かつ、自分が一大名であるということに不満を感じます。そして、大坂城をよこせとか、あるいは、百万石に加増しろとか、そういうことを語るようになり、父である秀忠も、忠長に対して次第に信を失うようになります。
兄弟という関係は、もちろん肉親として大事ですが、何と申しましても一番大事なのは、その大政、国家において、君主であり将軍である人物に対して、ひとまず臣下として仕えなければならないということです。それが国家というものであります。そこに、肉親であるからといって、いたずらにわがままを持ち込んだり、あるいは、勝手気ままに兄をないがしろにするようなことがまかり通れば、国の統治は揺らぎます。
これは、現代においても同じで、株式会社のオーナーの子どもたちが、兄が社長になって、弟が専務や常務になるケースがあります。しかし、この専務や常務たちが、兄弟だからといって社長である兄に対してないがしろにしたり、その経営方針などに対して従わず、あまつさえ、その会社の中に派閥やグループをつくって、兄である社長に反旗を翻すということは、あってはならないことです。
こうしたことから推察しますと、この忠長という人物は、組織とは何か、あるいは、国家とは何かということを知らない人物でありました。
そこで、家光は、秀忠が亡くなった後、この忠長に再三にわたり忠告します。兄としての忠告、あるいは、将軍としての命を出しながら、所業が収まらないことを見て、彼を改易にするということになります。そして、ついには、忠長は切腹のやむなきになるという悲劇が生じたのです。
●会津藩主として徳川御三家の地位を得る正之
とはいえ、家光は、孤独、かつ、孤高の君主、将軍として、頼りになる肉親がほしかったのです。自分の子どもである家綱や未来の将軍家を託すことができる、信頼に値する肉親がほしいというのは、やはり、親として、父としての情でもありました。保科正之という人物を見ていて、この人物が信頼に足りるということを知った時、家光はやはりうれしかったのだろうと思います。
そこで、家光は、この正之に対して、寛永...