●平和な時代をリードする保科正之の「民政」感覚
保科正之が明暦の大火で示した感覚は、なぜ生まれたのでしょうか。彼は3代将軍・家光から4代将軍・家綱の時代にかけて生き、政治の責任を担っていました。この時代は、ちょうど徳川が武断政治から文治政治へ、軍事中心の古い体制から平時の体制へと大きく切り替わる時期でした。すなわち平和の時代において、「民政」を重視しなければいけない時代に入ったといえます。
しかし、戦国の名残をとどめた老中や重臣たちもまだ周囲にはいたのです。例えば保科正之は、玉川上水をつくった最大の功績者の一人です。ところが、彼が「玉川上水をつくる」と言い出した時、彦根藩の藩主で大老を務めていた井伊直孝は、「そういうものをつくると、幕府に反旗を翻した大名や敵が、上水を通ってすぐにこの江戸に入り込むことになりかねず、危険だ」と反対しました。これは、すこぶる戦国的な発想です。
平和の時代においてまず問題になるのは、江戸の1万軒に安心できる水をどのように供給するかです。江戸は人口過剰な町ですから、現在の東京の基礎になる江戸の繁栄を支えていくためには、健全な水の供給が重要でした。上水道と下水道の管理をどうするかを正之は考えたのですが、「それでは、戦(いくさ)の際に不利になる」と発想する方が、当時としては普通でした。しかし、正之はそうではなくて、「民政」というものを意識しないと駄目だと考えます。
●江戸城に天守閣がない理由
前回、明暦の大火の際に天守閣が焼けて燃え尽きたと言いましたが、これを再建しなければいけないという議が起きた時、正之は「こうしたものに費やすお金をもって、他の復興計画に充当するべきだ」と反対します。天守閣をつくっても、もはや戦時においてすら、そうしたものが機能するかどうか疑わしいと考えたのでしょう。このような考えは、実際に近世から近代にかけての軍事的な哲学を先取りしていたものです。
天守閣には象徴的な意味はあっても、そこを使って敵に対して攻撃する意味はありません。むしろ守る側に立ったときに、天守閣は大砲等々の発射を受け、火力によって落とされることになり、非常に具合が悪いのです。
これは非常に皮肉なことですが、幕末の戊辰戦争の時に、会津若松城(鶴ヶ城)における天守閣の象徴的な焼亡により、白虎隊の若者たちは「天守閣が焼け落ちた」...