●法然を厳しく批判した華厳密教者、明恵
―― 先生、今回は明恵のお話にまいりたいと思います。明恵は1173年から1232年の方ですので、法然より少し後輩といいますか、少し後に生まれた方ということになりますね。
賴住 そうですね。
―― この方はどのような方でございましょうか。
賴住 はい。明恵で一番有名なのは、『摧邪輪(ざいじゃりん)』などで法然を非常に厳しく批判したことではないかと思います。
―― 彼の浄土宗的な考え方を批判したということですね。
賴住 そうです。「専修念仏」は、自分としてはもう本当に許しがたい教えであるといって非常に厳しく批判したことで知られております。しかし明恵という方は決してそれだけの人ではなく、非常に豊かな世界をお持ちの方です。
前回、法然のお話をするときに、「選択(せんちゃく)」ということがあると申し上げました。鎌倉仏教には一つの流れとして、ある一つの教えに集中していく方向があります。例えば道元の「只管打坐」、日蓮の「題目」、法然・親鸞の「専修念仏」などがあったとお話ししました。ところが、そのような流れと同時に、むしろ多くのものを総合して多様性を生かしていくような流れも一つありました。そちらの流れのもっとも典型的な方が、この明恵ではないかと思います。
明恵の場合、基本的には華厳宗ということで知られていますが、華厳宗だけではなく坐禅も行う。禅とともに真言密教も取り入れていったことから、「厳密(ごんみつ。華厳密教)」という言われ方もしています。さまざまなものを取り入れて、大乗仏教として深めていったということがいえるのだと思います。
―― 当時の仏教界における一種の巨人といいますか、いろいろなものを総合的に体現されたようなタイプの方ということでしょうか。
賴住 そうですね。はい、そういう方になります。
●生涯書き続けた『夢記』の独自性と宗教性
賴住 また、明恵につきましては『夢記(ゆめのき)』というものがございまして、ご自身が見た夢を青年時代から晩年に至るまで、ずっと書き付けていかれています。
―― それはまた面白い話ですね。
賴住 はい。こういう例は世界でも非常に少ないそうで、大変貴重な記録として知られておりますし、まさに彼の宗教的な世界が夢の中に現われているともいわれています。
夢というと、私たちは現実の生活にそれほど直接的な影響を与えるものではないと考えています。むしろ現実に疲れていたり困っていたりすることがあると、それが夢の中にちょっと出てくる、という程度に思いがちなのですが、明恵にとって夢というのは、自分の人生の方向を決めたり、非常に深い宗教的な意味を持っていたりするものだったのですね。
例えば例を挙げますと、明恵はまだ少年時代に出家をしています。その時に見た夢には自分の亡くなった乳母が出てきています。しかも、乳母の身体はバラバラになっていました。
その夢を明恵がどう解釈していったかというと、「自分の乳母は、生きているときにいろいろよくないことをしていたから、きっと死後に苦しんでいるに違いない。だから自分が出家して僧侶になったら、乳母を苦しみから救ってあげよう」という気持ちを持つわけです。
前回(法然編)でも申し上げたように、仏教では「輪廻転生」と考えますから、「悪いことをしていた人はこの世で終わりではなく、死後の世界で苦しんでいるから、苦しんでいる乳母を自分が立派な僧侶になって救ってあげたい」という気持ちを持ったということです。
このように、夢というものを、例えば仏からの何らかの諭しのようなものと考え、自分の人生を深めていくような形で、明恵は自分の見たさまざまな夢を自分なりに受け止めていったということです。
●現代人にもヒントになる明恵の態度とは
賴住 例えば後々の明恵は、非常に釈迦を慕っていました。「自分の父親である」と釈迦を捉えていたほどです。それで、「釈迦の国に行きたい」と、インドに渡航することを計画しました。この時もやはりいろいろ夢を見ました。
―― それは夢ではなくて、実際に行こうとするわけですね。
賴住 そうです。実際に行こうとして、いろいろ計画を進めています。ところが、夢の中に春日明神が出てきて留めたりしたようなことがあり、結局計画をやめてしまいました。そのように、自分の人生の方向性まで、夢の中の出来事を受け止めることで考えていくのは、大変興味深いことだと思います。
現代人であっても、やはり自分だけで完結したり、現実に見えるものだけで完結しているわけではありません。「自分には分からない、さまざまな情報を取り入れて自分が生きているというところに目を向ける」という意味合いで、明恵の...