●世界的ベストセラーの“格差論”。その意義と懸念
フランスの経済学者・トマ・ピケティ氏が日本に来日し、大きなブームになっています。いろいろな新聞社やテレビ局がインタビューをしていて、私の知っている大手新聞社は15分しか時間がもらえなかったと嘆いていました。こういう形で「格差」の議論がいろいろな人達に関心を持ってもらうのは、非常にいいことだろうと思います。
新聞報道等によると、『21世紀の資本』は、日本でも13万部、世界で100万部売れています。このことは、こういった課題についての関心の深さを表しているのだろうと思います。
ただ、私がゼミの学生と英語版の最初の約200ページをかなり丁寧に読んだ印象から言いますと、なかなか普通の方が気軽に読めるような本ではないように思います。非常にいい本ですが、いろいろな事が書いてある本ですから、「この本は世界で100万部売れているが、インテリアにこそなれ、なかなか中身は広がらない」と、誰かが皮肉まじりに言っていました。購入される方は、ぜひ時間をかけてじっくり読んでいただきたいと思います。
ピケティの議論は非常に面白い議論です。18世紀・19世紀の歴史までさかのぼって見ているところ、また、これだけ執拗に情報を捉えて網羅して出しているところが彼の強さです。ただ、読み方でいくつか懸念があるので、今日はそれを申し上げていきたいと思います。
懸念とは何かというと、所得格差や所得分配の不平等資産格差は国によってかなり性格が違うもので、それをひとまとめにして格差論で議論するのは、非常に危険なことになりやすいだろうということです。
ピケティが描いている世界、特に18世紀・19世紀の世界では、成長が今ほど高くない、非常に低成長の中で、ある意味で見ると、非常に格差が定着する世界なのです。たまたま自分の親が豊かな資産を持っていると、その遺産で子どもも食べていける。子どもが食べていけるだけでなく、その資産から収益も生まれるものですから、資産は膨らんでいく。一方で、親が資産を持っていない普通の家庭に生まれた人たちは、そこから頑張ってチャンスを広げようと思っても、低成長の社会なので、なかなかチャンスが出てこない。そういった、欧州型の強い格差定着をベースにしているわけです。
彼は、21世紀になっていくと、さまざまな事情で経済成長率が下がっていくと仮説を立てています。人口増加率も急速に小さくなってくるし、それに伴って一人当たりの生産も成長率も低くなるだろうという仮説です。そういう低成長国になると、結果的には18世紀・19世紀のヨーロッパで見られたような一部の人に資本所得あるいは資本という資産が集中する格差が続くのではないかというメッセージを言っているのです。
これも含めてさまざまな議論があるわけですが、学問的にいうと本当に彼の言う通りになるのかどうか。彼の有名な方程式である「r>g」(資本収益率の方が経済成長率より高い)、別の言い方をすると、経済成長が低下していく中で資本の蓄積が進んでいくと、資本の蓄積が進むにもかかわらず資本の収益である利子率はそれほど下がらないので格差が拡大する。この原理が正しいのかどうか、今、世界中の学者の中でいろいろな議論が出ています。今後の議論の広がりが楽しみです。
●「格差か成長か」の二項対立から脱却すべき
話を日本に戻して、この本の読み方で気をつけなければならないことが二つあります。
一つは、格差の問題に関してです。日本では、市場のメカニズムを活性化させて経済の成長率を高めていくことが格差を生みだし、結局、あまり好ましくない社会になるのではないかという議論がよくあります。確かに、成長率が高くなると一部の人に所得が集中するという格差が起こる可能性があります。しかし一方で、ピケティは、逆の世界を想像しているのです。ピケティの説では成長率が低くなるほど格差が固定すると言っています。
この二つは、かなり世界が違う議論だろうと思います。そういう意味では、格差をなくすためには成長をあまりしない方が良いのではないか、あるいは市場原理に成長を委ねない方がいいのではないか、といった、「格差か成長か」という、いわゆる二項対立的な議論は、おそらくあまり正しくないのだろうと思うのです。
戦後の日本も今のアメリカもそうですが、今の日本を考えたときに、一つの重要な特徴は、親が資産を持っていないで生まれてきても、本人が努力すれば、それなりのチャンスをつかむ可能性がある社会になってきているということです。それが成長力のある社会、あるいは活性化している社会と言えますが、やはりこれを壊してはならないと思うのです。
本人がいくら努力してもチャンスをつかめない社会は駄目だ...
(トマ・ピケティ著、山形浩生翻訳、守岡桜翻訳、森本正史翻訳、みすず書房)