●トルコ軍蜂起と似ていたソ連8月クーデター
皆さん、こんにちは。今回トルコで起こった軍による武装蜂起の失敗について、引き続きお話ししてみたいと思います。
この武装蜂起を見て私がすぐに思い出したのは、現代史においていえば1991年のソ連におけるクーデターでした。
当時はペレストロイカが行き詰まり、ロシア共産党が権威を失墜する中でした。再び改革を進めようとする党書記長だったミハイル・ゴルバチョフ大統領は、当時のロシア連邦ボリス・エリツィン大統領とカザフスタン共和国ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領の二人と協議して改革を進めようとしていました。
新連邦条約が調印されるはずだったのは1991年8月20日でしたが、その直前にゴルバチョフは、静養中だったクリミア半島において自分の子飼いの部下たちから幽閉され、政治の表舞台から一時去ったかに見える事件が起こりました。当時のKGB(国家保安委員会)ウラジーミル・クリュチコフ議長、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領、そしてヴァレンチン・パヴロフ首相らが「国家非常事態委員会」と名乗り、クーデターを起こしたわけです。
軟禁されたゴルバチョフと外部との連絡は当然絶たれ、彼はいつ抹殺されるか、それとも永久監禁されるのかと危ぶまれました。しかし、モスクワにおいてエリツィンが抵抗し、市民や軍部がクーデターの首謀者に反対したため、ゴルバチョフは彼らによる救出を待つばかりということになりました。
8月19日から首謀者たちが逮捕された22日までの間、クーデターは一時的に勝利したかに見えましたが、結果的には挫折しました。しかし、これにより最終的にゴルバチョフの権威は失墜し、ソ連邦は解体への道を進んだのでした。
●お粗末な武装蜂起が政権強化に与えた拠り所
この時はロシアの軍隊が理性的に振る舞ったと同時に、ロシア市民が決起に反対しました。しかし、今回のトルコの場合、最低でもロシアにあったような計画性はなく、クーデターを引き起こした首脳たちも社会的・政治的に高い認知度を誇っていたわけではありませんでした。そういう意味で、今回の「トルコの最も長い夜」に起きたクーデター未遂事件は、ソ連の1991年の状況と比べても、誠にお粗末極まりないものだったのです。
しかし、こうした事件を見て、エルドアン氏はどういう反応をするのか、今後注目されるところです。簡単に申しますと、エルドアン氏にとって状況は悪いことばかりではないということです。政治学では「最悪の文民政府」という言葉を使えるかと思います。「最悪の文民(シビリアン)政府であっても、最高の軍人政府よりはるかにましだ」という考え方です。
選挙を通して選ばれた文民の政権は、国民の付託行為を受けているわけですから、いかにエリートであり理性的であるにせよ、政治的委任を受けていない軍人たちが非合法な手段で権力を握るのと比べれば、「最悪の文民政府」の方がましだということです。
エルドアン氏は、こうした政治学的な金言(maxim)を根拠にして、今後大統領制を積極的に強化することに一路邁進するでしょう。彼が目指すのは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領のように個人権力をいろいろな手段で永続化し、かつ権威主義的な独裁を長期的に可能にし、理想とするような権力です。エルドアン氏において特徴的なのは、政治の手段すなわち手続きとしての選挙、そして選挙による民主主義を否定しないことです。また、その統治の理念では、法の精神と法の支配を否定しません。しかし、統治の手法は何かというと、政治的な異論を許さず、批判イデオロギーを全て封鎖する点にあります。
●巧妙で狡猾なエルドアン氏の強権的政治手法
今見えつつあるのは、こうしたエルドアン氏の強権的手法です。すなわち、これはプーチン氏とも違う、エルドアン氏独特の強権的個性です。これについては、折から出される日本人の専門家の談話が触れていないことが一つあります。それは、彼の統治と政治の手法が、エジプトで失脚したムハンマド・ムルスィー元大統領の政権与党であったムスリム同胞団に似ていることです。
彼らは、アメリカとヨーロッパに批判されないように、選挙では政治的複数主義として複数政党の共存を認め、批判的世論を許容しますが、ひとたび権力を取ると、その権力の強大化と確保に努めます。そして、自分たちが堅持しているイスラム・イデオロギーにこだわり、イスラム化を進めようとします。そして、次第に権威主義あるいは独裁制を構築していきます。これが、二人に共通した個性でした。
二人の違いといえば、ムルスィー元大統領と比べるとエルドアン大統領の方が巧妙であり、かつクレバーです。ただし、このクレバーさは意訳するならば、むしろ狡猾といった方が...