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「ハンガリー事件」後に残る社会主義の後遺症

ハンガリー訪問に学ぶ(2)社会主義体制の後遺症

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
ハンガリー事件(首都ブダペストを制圧するソ連軍)
ハンガリーの「社会主義体制の後遺症は相当深い」と、慶應義塾大学名誉教授・島田晴雄氏は言う。すでに資本主義体制になってから30年近くたつのに、いったい何が問題なのか。島田氏たちはいったい誰から何を学んできたのか。島田氏が大いに語るハンガリー訪問記。(2016年9月6日開催島田塾第138回勉強会島田晴雄会長講演「ハンガリーCEU訪問とGBHSについて」より、全2話中第2話)
時間:15:54
収録日:2016/09/06
追加日:2016/10/24
≪全文≫

●「European Picnic」で歴史的役割を果たした


 訪問日程について少しお話ししたいのですが、実はとても印象的なことがありました。7月13日に出発して20日に帰る予定でしたが、旅行社が間違えて、13日に成田空港を出る私の飛行機のチケットが取れなかったのです。それで仕方なく関西国際空港から行く予定になっていたのですが、そうしたら出発3週間ほど前に、イスタンブール空港でテロが起こったのです。私は少々不遜ですが、「しめた」と思いました。予想通りキャンセルがたくさん出て、私は成田空港から乗れることになりました。

 これら向こうに行っている最中のことですが、あと3日でイスタンブール空港から帰るという時に、クーデターが起こりました。反乱軍が首相官邸を爆撃したりしたわけで、もちろんイスタンブール空港は閉鎖されましたが、最終的にはレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領がスピーディーに収めたため、何もなかったように帰って来られました。今回の訪問は、そのようなテロとクーデターの洗礼付きだったのです。

 それから、こちらは糸見偲という女優さんで、ハンガリーでもう何十年も暮らしている方です。糸見さんの話は印象的でした。皆さんご存じでしょうか。1989年8月19日はヨーロッパにとって忘れられない日なのです。「European Picnic」と呼ばれています。何があったかというと、糸見さんのご主人はハンガリーの有名な映画監督で写真家なのですが、このご夫婦の家にハンガリーの当時の首相、内相、外務大臣などが集まって、ヨーロッパを変える突破口を開こうと相談したそうです。当時、ハンガリーは国境の鉄条網を切ったために何百人もの東ドイツの避難民がハンガリーに来ていたのですが、その人たちにオーストリアとの国境を越えさせてやろうと、彼らは8月19日にEuropean Picnicという集会を開催したのです。警察もそれを黙認して、数百人がどっと国境を越えました。これが連鎖反応を起こして、やがて11月にベルリンの壁が崩壊します。ハンガリーは小国ですが、重要な歴史的役割を果たしたのです。糸見さんはその時の思い出を語ってくれました。

 ハンガリーは牧歌的な国です。緑も豊かで、普通の家の庭にも花がいつも咲いていて素晴らしい。われわれは訪問中の休日に、トカイ地方を見に行きました。トカイワイナリーは、世界でも有数の貴腐ワインの宝庫です。第二次大戦でトカイ地方の半分をチェコに取られてしまってトカイとは言わなくなったそうですが、今も立派にワインを作っています。


●ハンガリー事件が日本にも大きな影響を与えた


 それでは、CEUのプログラムをたどりたいと思います。この写真は勉強の雰囲気です。このビジネススクールの一番良い部屋で勉強しました。写真でお話をしているのはホーウィッチ校長先生です。これはみんなで食事をした時の写真ですが、大学のレストランなど、素晴らしい施設を持っているのです。

 まず行った時に、メル・ホーウィッチ先生がウェルカムセッションをしてくださいました。それから、この写真の右にいるマーラーさんはハンガリーの代表的な金融経済学者で、ヨーロッパにあまり詳しくないわれわれに対して、大変詳しい見事なレポートをしてくださいました。ハンガリーはユーロに入っていませんが、ハンガリーから見たユーロ問題を立体的に議論してくださり、大変勉強になりました。

 実は、この方にはある歴史があります。1956年、まだティーンエージャーだった18歳の頃に「ハンガリー事件」があったのです。ハンガリーで若者たちが自由化運動を起こし、それに対してソ連が戦車隊を送り込んで弾圧した事件です。何千人もの若者が抵抗したため、多くの犠牲者が出ました。この事件は日本に大きな影響を与えています。かつて日本の文化人が戦後の共産主義を高く称揚した時代があったのです。資本主義は強い者、スピードの速い者が勝つ仕組みで、弱者は遅れてしまいます。一方、共産主義は戦後の焼け野原の中で、学校を建て病院を建て社会保障を行うものですから、日本の文化人は共産主義が理想だと思っていたのです。

 ところが、戦争が終わって10年もたたないうちに、理想の国家であったソ連が突然ハンガリーに戦車隊を送ったわけです。これには日本の社会主義者たちも愕然としたのですが、多くが「それでもやはりソ連はいいのだ」と言い続けました。それほど日本の文化人は社会主義共産主義を信じていた時代があるのですが、ハンガリー事件はその信奉を覆した最初の大事件でした。

 マーラーさんはその抵抗運動の中で足を撃たれて片脚になり、義足で三日三晩飲まず食わずでウィーンにたどり着いたそうです。そこでアメリカに救われ、アメリカに渡って教育を受け、ハンガリーで一番立派な学者になって帰ってきたというハンガリー事件の生き証人のような方な...
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