●「いじめは駄目」ではLGBT対応には不十分
実際に日本のいじめ対策を見てみると、いじめ防止に関する法律が、今から4年ほど前(2013年)にできて、しっかりと系統立ったいじめ対策は行われるようになってはいるのですが、そのいじめ対策の中にLGBTの子ども、性的なマイノリティの子どもは位置付けられていませんでした。
しかしながら、こういった子どもたちの性的な指向、あるいは性自認と言いますが、セクシュアル・オリエンテーション、ジェンダー・アイデンティティに関連して、いじめや排除をされているという現実があるのです。それはやはりそのことが原因となるわけですが、その原因に対して適切な対応がなくてはならない、とわれわれは考えました。
もともと文科省が持っていたいじめ対策は、「絶対いじめは駄目。誰にでもいじめは起こり得るもので、皆が関心を持たなければいけない。そして絶対やっては駄目」と、こういう感じなのです。それ自体は非常に正しいことで、もちろん、いじめは絶対に駄目なことですし、確かに誰にでも起こり得るものです。しかし、さまざまなバックグラウンドのあるいじめに関しては、それぞれ特殊な対応が必要で、先生の理解から始まって、教育の内容やさまざま専門的な知識、経験に基づいて対応しなくてはならないものなのです。そういったものがなく、ただ「いじめは絶対駄目だよ」ということだけではやはり、いじめはなくならないですし、有効な対策は打てません。そういう状況が浮き彫りになっていました。
●「制服」はトランスジェンダーの子たちの大きな壁
あともう一つ思ったのは、LGBTの中のトランスジェンダーの子どもたち、いわゆるジェンダー・アイデンティティ、性自認のマイノリティの子どもたちに関して、です。特に典型的なのが、例えば小学校ぐらいなら、「ちょっとボーイッシュな女の子だね」とか、「少し女の子っぽいおとなしめの男の子だね」とか、そんな感じで学校に行けていたのが、中学校に上がると、大体制服を着るという状況になるため、本人が思春期になってくることも同時だからということもあると思いますが、制服としてスカートをはいている自分というものがどうしても受け入れ難い、あるいは学ランを着ている自分というものがどうしても嫌であると、ある意味初めて思うようになる、つまり、そういった「すごく嫌だ」という気持ちがしっかり認...