テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

技術革新で「学び直し」は廉価に国境を越える

新しい学び直しの方法と可能性

小林りん
ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン 代表理事
情報・テキスト
人生100年時代において、大人の学び直しは必須のものとなっている中、その手段をめぐって高等教育の在り方が問い直されている。イェール大学ワールドフェロープログラムに参加したユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン代表理事の小林りん氏が、自身の経験から新しい学び直しの方法と可能性について論じる。
時間:13:13
収録日:2018/04/11
追加日:2018/05/01
カテゴリー:
タグ:
≪全文≫

●ワールドフェロープログラムへの参加


 2017年の後半に、私は半年間にわたってイェール大学のワールドフェロープログラムに参加しました。このワールドフェロープログラムは、イェール大学が世界中から、学者ではなくプラクティショナー、すなわち実践者の中から毎年16名を選抜し、大学に招聘するものです。参加者はそこで学び直したことを母国に持ち帰り、改めて自国の中でインパクトを与える人になることを目指します。

 ちなみに、16名中アメリカ人はゼロで、アメリカ人以外を招聘していくというプログラムです。元学長が世界から来た人たちが話してくれることが大事だということで、招聘されてイェール大学に来た学生に対し大学側が全てを出してくれるというものです。


●10年に1度学び直しをし、自分の考えをブラッシュアップしてきた


 そのプログラムの詳細に入る前に、私自身のことを振り返ってみたいと思います。私は10年に1度ほど、学び直しをしてきました。

 私はそれほど勉強が好きな方ではなかったので、1998年に大学の学部を卒業した瞬間に「これで私の勉強は終わった。一生大学の門をくぐることはないだろう」と思っていました。しかし20代になり投資銀行やベンチャーの世界を経験させていただいた後、30歳前後になると、教育業界に行きたいと思うに至りました。そこでスタンフォードの大学院に教育学を学びに行きました。

 そこから教育業界に足を踏み入れて、10余年が過ぎました。今回のプロジェクトは業界に入って10年が経った節目の年に行われたのですが、自分は社会や教育界にどういった貢献をさせていただけるんだろうということを見つめ直したいという思いで、再び大学院に行くことを決意しました。現在43歳です。

 こうした経歴を振り返ると、社会に求められていることや自分自身の知識やスキルなど、あらゆる面で10年おきぐらいに自分をブラッシュアップする必要性を感じています。本来ならば社会人がもう少し短期間に学び直せる、手軽で廉価な機会があると非常に良いと思います。ですので、テンミニッツTVのようなプログラムもそうですが、必ずしも大学に行かなくても社会人が自分の考えを深めたり、学び直したりする機会は重要であると考えています。


●プログラムでもっとも衝撃的だったのは、同年代の覚悟だった


 イェール大学のプログラムは3つに分かれていました。1つ目は16名集まって行うフェロー同士の学びです。2つ目は、イェールの中でオファーされているコースが2000ほどあるのですが、その中からどれを取ってもいいということで、それを選び受講するというものです。私は特に教育について自分が足りないと思っていた部分を専門的に学べる授業を取りました。3つ目は、イェール大学のコミュニティに対して授業をするというもので、これも大きな使命でした。世界では今何が起こっているのかということを、実社会で働いている人間として、あるいはアメリカの外からアメリカを見ている人間としてどう考えているのか、どう生きているかということをシェアするということが、プログラムの大きな骨子でした。

 この3つの中で、特に私にとって衝撃的なほど学びがあったのは1つ目でした。このプログラムは、ミッドキャリアと呼ばれる平均年齢が39歳から40歳ほどの人たちが参加するものでした。私は少し年上でしたが、ほぼ同年代の仲間が集っていました。

 一番強く感じたのは、同年代の人たちの覚悟です。世界の国々ではこの年代の人たちがこれだけのポジションで、こんなに命を賭ける覚悟までして国のために社会的使命感を持って生きているんだ、ということを感じ、私は毎週心を揺さぶられるような思いをしました。


●フェローの経歴と現在から、国家への貢献欲や使命感を感じた


 例えばフェローの1人であるリベリアの医師は、12年間のリベリアの内戦の中で、親戚の家が焼かれ、父を精神病で失いながら、目の前で人が撃たれていく状況を経験していました。

 リベリア内戦によって優秀な頭脳がどんどんと国外に流出したので、病院に行っても医師が国民1500人に対して1人ほどしかおらず、病院に担ぎ込まれても、目の前でどんどん人が死んでいくという状況を目の当たりにしたといいます。そこで彼は「僕は大きくなったら医師になる」という覚悟で、内戦が終わった後、大学に行きます。しかし国家の財政難により、大学が1年に半分しか開いていないという状況でした。そのため学部を8年かけて卒業します。

 そしてようやく医師になれるという時に、今度はエボラ出血熱(エボラ)が流行します。一緒に医師になった研修医がどんどんと死んでいくため、周囲のほとんどの者が国外逃亡していくという状況でした。そんな中、彼は1人残ってエボラの撲滅と、それが蔓延した原因になったリベリアにおける公共医療...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。