●先人たちの知の結晶ともいえる翻訳語の数々
日本人は、和漢洋三つの世界の知恵を比較したり消化することによって、書物を通して多くのバランスをとってきたのです。
最初、ヨーロッパの本を読んで、「これは何なのだろう?」と、分からないことがたくさんあるわけです。例えば、あの有名な江戸時代の『解体新書』の翻訳にしても、原書の『ターヘル・アナトミア』を読んでいて、江戸時代の蘭学者たちには意味が分からない。「顔にありて高きところ」というような説明があると、辞書を読んで、さあ、何だろう? と考える。しかし、よく分からない。「顔にある高いところ」という説明がしてあるから、これは鼻だろう。鼻というのはこういうオランダ語なのか、というようなことを一つ一つ、先人たちは乗り越えていかなければいけなかったのです。
英語の「ニューズ」という言葉が出たとき、われわれは今「ニュース」とそのまま言っていますが、この「ニューズ」という言葉を「新聞」や「報道」と訳す。これには大変な苦労がいったわけです。しかし、中村敬宇が訳した「新聞」という言葉は、うまいものだと改めて思います。ニューズ、それを新たに聞く。これが今の「新聞」という言葉の濫觴(らんしょう=起源)になったのです。
「スピーチ」という言葉があります。今、「テーブルスピーチをしてください」とか「結婚式のスピーチ頼まれちゃってね」などという場合のスピーチです。これを、福沢諭吉が最初に「演説」と訳したのです。「演説」という言葉は日本語にはもともとはなかったのです。
また、「フィロソフィー」とは何だろうとも考えたわけで、これは、西周が「哲学」と訳しました。
このように、欧米語から日本語に入った言葉で、私たちが明治以降に訳した言葉を使わなくては、現代社会での日本語は成り立たない言葉があります。「社会」であるとか、「資本」、それから「芸術」、「職業」、「生産」、そして「思想」、こうした言葉は、いずれも欧米の言葉から日本語に訳されて、しかもこれらの言葉が日本から、われわれが漢字を輸入した本国である中国に、逆に輸出されていったということです。
「歴史問題」とよく言われますが、この「歴史」という言葉、「歴史(リシ)」という言葉ももともと中国にはない言葉でして、日本から「歴史」という言葉が輸出されて中国に入って、「歴史(リシ)」と呼ばれることになったということであります。
●論理的思考による優れた翻訳を可能にした読書による和漢の教養
実は、日本の知識人は、ずっと古くから朱子学や陽明学という儒学を学んでいましたから、ものの考え方や論理的な思考力は常に鍛えていたのです。この論理的な思考力、思弁する力によって、ヨーロッパから外国語が入ってきた時に、それを何と訳したらいいのだろう、何と呼んだらいいだろうかということについて、自分たちの自前の理解によって新しい言葉をつくり出していったということなのです。
そして、こうした外国語を漢語に置き換えて思考の枠組みを変えていくような、重層化していく作業は、もともときちんと本を読み、書物を通して和と漢、すなわち日本の古典や中国の古典に対する知識を持っていたからこそ、そういう教養があったからこそ可能になったのです。
したがって、私たち日本人はヨーロッパからいろいろな学問を輸入しましたけれども、法律用語などは一つ一つ言葉を訳していったのです。そういう努力をした先人たち、津田真道や、先ほど触れた「哲学」という言葉を作った西周、加藤弘之、あるいは箕作麟祥(みつくりりんしょう)といった人たちの苦労は、大変なものがあったと思います。ですから、今の六法や、刑法をはじめとするいろいろな法典にも、難しい単語がその名残として残っているということになるのです。
●穂積陳重が語る、竪と横を行き来する翻訳の苦労
こうしたことを知るための本としまして、多くのエピソードが語られている本で読みやすい法律書、あるいは法律のエピソードの本があります。東京大学の法学部教授だった穂積陳重(ほづみのぶしげ)博士の書いた『法窓夜話(ほうそうやわ)』、あるいは『続・法窓夜話』といった、いずれも岩波文庫に入っている本がありますが、その本を読んでいきますと、実に楽しいものがあります。
その中で、穂積博士はこういうことを言っています。よく不精な人間をののしって、「竪(タテ)のものを横にさえしない」といって批判する者がいますが、穂積博士は「考えてみると」と、次のように言っているのです。
「竪のものを横にしたり、横のものを竪にすることほど難しい仕事はない」と皮肉を言っているわけでして、これは何かというと、「翻訳というのは大変なことだ」「翻訳の苦しみとは大変なものだ」ということなので...