●書物こそ、永遠に、尽きることのない知恵を与えてくれる友である
皆さん、こんにちは。
私たちは、学問、あるいは、勉強のみならず、新しい社会における活動に際しましても、常にものを考えるときに書物に頼ることがあります。それは、書物が多くの知恵を与えてくれるからです。そこで、今日は、読書とは何か、あるいは今、私たちは本から何を得るべきなのか、ということについて、少し古典的な書物を中心にお話してみたいと思います。
イスラム史における有名なエピソードがあります。ある日のこと、イスラム・スンナ派の最高権力者、すなわち預言者ムハンマドの正統的な末裔とされる継承者カリフは、知恵のある学者のもとに、自分の話相手をさせようとして、使者をつかわせました。すると、この学者は、「今、賢者と話し合っている最中だから、用が済み次第、陛下のもとに伺候する」と答えました。
しかし、この学者はすぐには出かけなかったのです。カリフは、「その賢者とは何か」と問いただしたところ、使者はカリフに向かって、「いいえ、今その学者のもとには誰もおりません」「学者はただ書物を読んでおり、書物を重ねたまま一心不乱に読みふけっているにしかすぎません、陛下」と答えました。当然カリフは怒り、「すぐにここへ引き立てよ」と、無理やりにでも引っ張ってくるように使者に命じました。そして、その学者に対し、「お前は、いったいわしの命令に背いて何をしていたのだ。誰もいないのに本を読みふけっていたとは、けしからんことではないか」と問いただしたのです。
すると、この賢い学者は次のように詩をうたったのです。
われらのもとには話しても話しても
倦(う)むことのない友がおります
彼らは陰に陽に誠実で信用できる者たちです
皆、過去の知識をわれらに教えてくれます
意見、教養、名誉、威厳のすべてを
それらの者は「死者だ」と申されたところで
間違ってはおりません またもし
「生きた人間だ」と申されたところで
嘘を申されたのでもございません
すなわち、ここで言う友とは何かと申しますと、書物に他なりません。書物こそが、永遠に、そして尽きることのない知恵を与えてくれる自分の友であるということです。
このように、カリフが、知に対するこの学者の関心、敬意をまた愛でて、遅れたということの無礼をとがめようとしなかったという話が、イスラム史には残っているのです。
●読むことは、人間の知的発達における重大な出来事
この逸話は、1262年頃に生まれたとされているイブン・アッティクタカーという人物の著書『アルファフリー』の中に書かれています。『アルファフリー』は、その副題が「イスラームの君主論と諸王朝史」という訳で、日本語で読むこともできますが、「君主論」という副題にも表されていますように、この書物は、政治家はいかにあるべきか、あるいは統治者はどのような心構えであるべきかということをイスラム史の上で解き明かしてくれた、大変大事な古典の一つであります。ここにおける知に関する謙虚な逸話は、「知識ある者とない者は同じであり得ようか」というコーランにある有名な句がありますが、この句に象徴されるように、イスラムが世界史において最盛期を迎えていた頃の時期と人々にふさわしい逸話です。
預言者ムハンマドは、またこのようにも言っています。
「まことに天使らはその翼を知識を求める者の上に置き給う」
つまり、神の啓示やメッセージを人類に伝えていく、そうしたガブリエルのような天使は、その翼をこの世の中で知識を持つ者の上におろしてくる、ということを語ったと言われています。
イブン・アッティクタカーは、もともと14世紀のイラクのシーア派の指導者だった人物ですが、書物と知識の価値についての発言は、現代にも通じるものがあるのではないでしょうか。
書物は「欺かず、疲れさせず、仮に読者が粗末に扱っても、文句もいわず、読者の秘事を暴くこともない座右の友」という指摘も、この本の中には見られます。こうした指摘には、現代の私たちが学んでいる知恵にも通じるところがあります。
イギリスで活躍した20世紀の分析哲学者に、カール・ポパーという人がいます。ポパーは、自分の自伝的な著述の中でこのように言っています。
「読むこと、そして重要さの程度は落ちるが書くことを覚えることは、いうまでもなく、人間の知的発達における重大な出来事である。これに匹敵するものはない」
イブン・アッティクタカーというイスラムの古典的な学者の書いたものと、20世紀の分析哲学者であるカール・ポパーの原理は、驚くほどの共通性が見られます。
●読書とは、正しい統治をするための王者の条件である
イブン・アッティクタカー...
(イブン アッティクタカー著、平凡社)