●AIに本は書けるのか
―― これはなかなか難しいレベルの話です。将棋の話でいうと、最近、コンピュータも思いつかない手が、第何局、第何手目に出たという話があります。この状況を理解するためには、この一手が今までと全然違う手だったというのが分からなければなりません。また、先ほど先生がおっしゃったように、論理を積み重ねていった場合に、「いや、この論理の積み重ね自体に無理があるのではないか」「これは積み重ねた論理が間違っているのではないか」というのも、分からなければいけないんですね。
橋爪 AIは将棋ができます。では、AIは本が書けますか。
―― なるほど。それは面白い問いですね。
橋爪 AIはなぜ将棋ができるか。まずもし盤面がめちゃめちゃ膨大、例えば1万×1万だったならば、スパコンでもなかなか難しい世界になってしまいます。
―― 計算処理が難しいということですね。
橋爪 そうです。計算処理が膨大すぎます。
それから、チェスと違って将棋は取った駒をもう一回使えます。だから、チェスよりも場合の数が桁違いに複雑なはずです。
―― そうですね。取った駒は好きなところに指せますからね。
橋爪 はい。場合の数が増えてしまうんですが、何億手の中で良い・悪いを判断することができる。つまり、結論までいきませんが、人間の能力を超えるところまではいったということです。そのため、AIは将棋が指せていて、プロに負けないレベルにまで至っています。
それに対して、本を書くという作業においてはどうか。まず盤面が分かりません。将棋は駒を使い、本は言語を使います。普通の言語の使い手のボキャブラリーは2万~4万語なので、将棋の駒より数が多いですね。
それから、盤面に当たるところが、本だといったい何なのかが分かりません。だから、AIに本を書かせようとしても、書かせ方がよく分かりません。これは良い本か悪い本かをAIが判定するというのはまだまだ先の話です。
―― そうですね。本当にそうだと思います。
橋爪 今はまだ全然できません。でも不思議なことに、人間は本を書いています。人間はなぜ本が書けるのか、そもそも人間はなぜ言葉でものが考えられるのかということについて、まだセオリーさえありません。コンピュータは言語の自動翻訳やさまざまな処理をしていますが、これは初等的なことにすぎません。大したセオリーもありません。だから、本を書くことと将棋は似ていると言ったのは、プリミティブな比喩であって、本当にそうなのかどうか、実は分からないのです。
でも、不思議なことに人間は本が書けるし、人間は本が読めます。これは人間の能力を将棋以上に最高限度に駆使しているという状態だと思います。
●人はセオリーのない日常を生きている
橋爪 実は日常言語も日常社会も同様です。人間は言葉をしゃべったりしながら、組織をつくったり、ビジネスをしたり、政治をしたり、いろんなことをしています。これは、まだセオリーがないぐらいすごいことです。
しかも、これらは大勢の集合的な活動です。社会学という学問がありますが、社会は科学にならないぐらい、取っかかりがなくて奥が深いのです。でも、社会を良くしようと思って、いろいろな人が、いろいろな本を書いています。このこと自体、説明が難しいことです。でも、ちゃんとした言論とダメな言論があります。
ちゃんとした本とダメな本があります。そして、編集者がいてそれを見分け、通路づけて、ちゃんとしたものを世の中に届けようと努力しています。このことがなぜ可能なのか、何をしているのかということを説明するセオリーもありません。だから、直感でやっているのです。
そして、それには意味があるというみんなの合意があります。だって、編集していないものと編集したものでは、明らかにクオリティが違います。編集者の目に適ったものと適わなかったものも、明らかにクオリティが違います。
だから、確かにそれはあるのですが、サイエンスの立場で解明できていない。そういうものです。そんな雲をつかむようなものを、わたしは今、説明しています。
これにも根拠があるかといわれれば、サイエンスの根拠はありません。しかし、人びとが納得できる程度の根拠はあるはずです。つまり、そのモヤモヤしたものを日常語に置き換えて、皆さんにお伝えてしているということです。
●ユニークな決断の積み重ねが自分の人生になる
―― はい。だから受け手としても、知的生産のプロセスをある程度分かった上で捉えないといけません。冒頭に出たように、SNSのいろいろなレベルの情報とそうではない情報の違いを、どう見極めていかに本当の情報にアプローチするかということが、大事になってきますね。
橋爪 はい。でも、その言葉を生み出す生産は、日常会話の...