●領土問題と宗教の関係
皆さん、こんにちは。日本ではあまり知られていないことですが、新聞等々を通して、あるいは衛星放送などを通して、皆さんの中には2020年7月12日以来、南コーカサス(中東とロシアを結ぶ地域、カスピ海と黒海にはさまれた地域)において、アゼルバイジャンとアルメニアが軍事衝突を繰り返しているということに、お気づきの方もいらっしゃるかと思います。
日本の新聞報道や通信報道、テレビの中には、「両国、アゼルバイジャンとアルメニアは宿敵同士である」ということで、紛争原因を究明しようとする人もおります。このことが意味するのは、トルコ系のイスラム教シーア派国家とアルメニア教会のアルメニア共和国が対立しているということを、言いたいのだと思います。
もちろん、衝突の原因は領土問題をはじめとした政治的なもの、歴史的に由来する政治的な要素でありまして、単純に宗教、信仰の違いに関連できるものではありません。とはいえ、人間や人間の共同体の現実には、多少なりとも宗教の影響を受けた生活が浸透しているのも事実であります。
●キャントウェル・スミスが説く「歴史の多様性」
この点で、私は最近読んだばかりの本を皆さんに紹介してみたいと思います。それはこのような書物でありまして、2020年7月に出されたばかりのウィルフレッド・キャントウェル・スミスの『世界神学をめざして――信仰と宗教学の対話』(明石書店)という大変魅力的なタイトルをつけた本です。キャントウェル・スミスはもともとハーバード大学の教授で、
ちょうど2000年に亡くなった方です。そのスミス教授の教えを受けた中村廣治郎氏、元東京大学教授、東京大学名誉教授にして宗教学、イスラム学の権威でありますが、その中村氏が翻訳したもので、なかなかこの顔ぶれといい、本のタイトルといい、大変魅力的な組み合わせになっているわけです。
キャンベル・スミスは、歴史家、つまり私のような歴史家が抽象化に熱情を抱くあまり、人間の宗教生活を低く見ることに警告を発しています。まことにその通りなのですが、歴史学というのは具体性の学問ですので、歴史家が抽象化に熱心になるとキャンベル・スミスが言っているのは、あまり心配する必要はないかと思います。
ただ、スミスが言いたいのは、歴史というのは特殊な事情であるとともに多様性の場である。従って、人間それぞれの夢、人間それぞれの意志や意にかなわない現実もある。その人間的な要素が出会う場が歴史である。その歴史の多様性を見なくてはならない。宗教というのは非常に多様なものであり、人々が違えばその感じる宗教や、信じているものがキリスト教と言ってもどういうキリスト教か、どういうイスラム教かということによって、違いがある。こういうことを彼は言いたかったのでしょう。「それを単純化してはなりませんよ」というのが、スミスの言いたかったことだと思われます。
●他者を批判・批評するときは現実的理論を持つべき
この書物で印象深いのは次のような言葉であります。「自分が他者にしてもらいたいと思うことを他者にもせよ」。これはキリスト教徒の最も良質的な信条、キリスト教徒の非常に冴えた訓戒、戒めであります。それを引いているのです、この本においては。
良質な宗教学者ならずとも、私たち歴史学者であっても、他の人々の宗教的な問題の理解に際して、あるいは自分と違う宗教を信じる人たちが、他の宗教の問題を理解する際に、問題を立てたり論評をしたりするときに、問題の立て方が自分自身の場合にも適用できるのか。あるいは、少なくとも自分が考え、解釈できるような原理、または解釈できる理論を示すべきだ。それ抜きに他者を批判してもだめだ。要するに批判や批評をするときには、きちっとした現実的な理論を持たなくてはならない、と。この「現実的」という意味は、自分が受け入れられるものかどうか、ということを言っているのです。
そうしたときにこの考えというものは、イスラム教をはじめとしキリスト教徒、仏教徒の信者も持つべき気構えではないかと私は思うわけで、このスミスの主張にはなかなか納得できるものがありました。
●宗教とは歴史的プロセスの複合体
もう少し私のような歴史学者の立場から考えてみると、こういうことかと思います。スミスはこのように言っています。「世界の歴史を通観する歴史家は、自分のものを含めてさまざまに宗教と呼ばれてきたものを、歴史的プロセスの複合体と見る」と言っておりますが、これはまさに歴史家も納得できる立場です。
しかし、よく私たちは「影響」という言葉を使います。異なる宗教というのが存在している。それが互いに影響し合って新しいものができるかのような印象を与える。そういう表現を使う人たちがいますが、これはちょっ...
(ウィルフレッド・キャントウェル・スミス著、中村廣治郎翻訳、明石書店)