●カットされた謎の人物「ブルカニロ博士」の登場シーン
―― 「ほんとうの幸い」とは何かということを考えていく上で、一つのヒントになるのが「ブルカニロ博士」という人ですね。
鎌田 そうですね、謎の人物ですね。「セロのような声」だと。
―― これは、先ほど先生がいわれた天沢退二郎氏らの校訂ではカットされてしまった部分になります。
鎌田 最終形ではね。
―― 最終形ではカットされたと考えられている箇所になります。ただ、今でも流通している岩波文庫版や角川文庫版などの本では、この部分が残っていたりします。
鎌田 例えば、1951年版など1950~60年代に出た本では、ブルカニロ博士が出てくる文庫本などがあるということですね。
―― そうです。
鎌田 それで読んでいる方もいらっしゃるはずですね。
―― ええ。ただ、まったくそういうところがあることを知らないという方も多いと思います。私などは最初に「セロのような声」が出てくるバージョンで読んだものですから、どうしてもそれがないとさみしいですね。
鎌田 確かに、あのセロの声というのは印象深いですね。
―― 印象深い。それに、ここは禅問答のように謎めいた問いかけのシーンになります。これがもともとはどういうシーンのあたりに入っていたのかというと、まさにカムパネルラとの最後のシーンのあたりです。
みんながいなくなってしまい、「僕たち、どこまでもどこまでもいっしょに行こう」と言った後で、ジョバンニがカムパネルラに「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」と訊き、カムパネルラは「僕わからない」と答える。そういう問答をしている間にカムパネルラが急にいなくなって、ジョバンニは慟哭する。そうすると、次のシーンに来るわけです。これが、ブルカニロ博士または「セロのような声」の「そのひと」というところになってきます。
原稿のほうでいうと、見づらい字ではあるのですが、真ん中あたりに「卍」があります。この前のところはジョバンニが泣くシーンで、ここに「挿入をしてください」という印にしているのが「卍」です。挿入する原稿として宮沢賢治が書いたのが、次のものになります。
ここは右上に「卍」があり、これを入れるという指示になっています。今から読んでいく、「セロのような声」の人とジョバンニの会話が続いていきます。
この箇所については、宮沢賢治がこれに×をしたり上から線を引いているわけではないのですが、内容的にこれはないだろうということで校訂されたという流れになっています。だいたい1枚半ぐらいにわたって、かなり小さい字で書き込まれているのが、このシーンです。
●「みんながカムパネルラだ」――法華経の思想と「久遠実成の本仏」
―― ちなみに、これがそのシーンの終わった後にくる終結パートです。最後の最後、ジョバンニが目を開いたシーンというのは、こういうような形で、また別紙に書かれているということになります。
では、どういうような会話がそこでなされているか。もしかすると、このパートについては初めてお読みになる方もいらっしゃるかもしれないので、全文を起こしてあります。次のようになっています。ジョバンニが大泣きをしている(シーンです)。
〈「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニは、はっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラのすわっていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人が、やさしくわらって大きな一冊の本をもっていました。〉
こういうことになります。この人は全てを悟っているように、
〈「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」〉
ジョバンニがこう言うと、彼はここでちょっと不思議なことを言うわけですね。
〈「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果(りんご)をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこ...