●日本宗教史を貫いてきた『法華経』の流れ
―― 鎌田先生には以前、神話の比較の講義をしていただいたことがあります。例えば北欧の神話などは、ある意味では…。
鎌田 暗いですね。
―― 暗くて、破滅に向かうようなものだったりすると。それに対して、日本の神話は天壌無窮…。
鎌田 天壌無窮、まさにそうですね、『法華経』は天壌無窮ですね。
―― ずっと未来へ、ですね。それこそ何十億という過去から何十億という未来に向かって突っ込んでいくような雰囲気です。
鎌田 こんなに明るい経典はないですね。
―― そうですか。やはり他の経典と比較しても、そういうものなのですか。
鎌田 経典ではないですが、『選択本願念仏集』も「地獄だから、今は」「末法だから」と称しているので、闘争の世界、修羅の世界ということで、暗いではないですか。
『法華経』ももちろん「現実は暗い」ということを前提にしてはいますが、『法華経』ほど明るい(ものはない)。「もう大丈夫だよ」と言ってくれる。タイ語でいうと「マイペンライ」、沖縄の琉球言葉でいえば「なんくるないさー」です。要するに「本当に大丈夫よ」、"Everything's OK"ということで、『法華経』は人々に安心を与えます。
でも、日蓮は末法の時代の『法華経』を打ち出すのに、いろいろな経典の中で使われる「七難」という(概念を)使いました。これは災難が七つあるということで、他国に侵略される難、国内で内乱が起こる難など、いろいろなことが書かれている。それらを読み解いて、(『立正安国論』の中で、)「承久の乱」のような国内の反乱、「蒙古襲来」のような外敵の侵略を予言しています。
そのような難から立正安国し、すなわち救われるためには『法華経』を信じる世界にならないといけない。『法華経』を現実的な救済の経典にして、それを国家のガバナンスと結びつけていこうという運動を、日蓮は起こした。それが現代に引き継がれているので、けっこう激ヨワですね。
「大丈夫」ということで、具体的な宗教的活動や宗教的信念の後押しをずっとやってくれた点では、聖徳太子が挙げられます。彼は『三経義疏』の中で、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を注釈したとされています。この選択眼、『法華経』を選んでいるというところが、聖徳太子のすごさでしょう。
―― そうですね。
鎌田 そして、それが和の国の救...