●唯一神を超える「ほんとうの神さま」の意味
── 先ほど少し「ほんとうの神さま」論議の話が出ました。ここのお話を(今回は)いただくことにしたいと思います。
この「ほんとうの神さま」論議については、あらすじを思い出していただくといいのですが、南十字のところで女の子と弟と青年が降りていきます。それまで楽しく旅をしてきたので、なんとなくみんな名残惜しい状況になり、ジョバンニがこらえかねて「僕たちと一緒に乗っていこう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ」と言います。
そうすると女の子は「だけどあたしたち、もうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」とさびしそうに言います。ジョバンニは「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が言ったよ」。
女の子(とジョバンニ)は「だっておっ母さんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ」「そんな神さまうその神さまだい」「あなたの神さまうその神さまよ」「そうじゃないよ」と、言い合いのようになっていきます。
ここへ青年が入ってきて、「あなたの神さまってどんな神さまですか」と笑いながら言いました。ジョバンニが「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです」と言うと、青年が「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です」と言う。
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」。すると青年が「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります」。青年はつつましく両手を組みました、ということです。
この青年は明らかにキリスト教を意識していて、キリスト教的な唯一神を前提に話している。ジョバンニはそのあたりがまだ明確な像を結んでいないけれども、この前のページにあった「ここで天上よりももうちょっといいところをこさえなけぁいけないと先生が言ったよ」というメッセージをここで語っています。
この「ほんとうの神さま」についても、やはり謎めいたといえば謎めいた箇所になりますが、ここはどういう意味になりますか。
鎌田 これは、先ほど実験をするときに、「信仰も化学とひとつになる」とか、「みんながめいめいの信仰を持っていても、その人のしたことで涙することはあるだろう」「その人のことをちゃんと深く受け入れて理解することができるだろう」というところとつながる部分ですね。でも、同時にここでは対立して分かれている。分裂している事態を表現しているのです。
「ほんとうのほんとうの」と2回繰り返して、「ほんとうの神さま」と「うその神さま」のような形で表現されているときは、もうはっきり分裂して対立している、分断されているわけです。だから、キリスト教の神さまと仏教の仏さまとか、そのようなものの違いが教義的なレベルで際立ってくるわけです。
そうすると、教義に基づいた信仰ということを考えれば、みんなそれぞれ違うわけだし、アッラー、ヤハーヴェ、大日如来、法華経の久遠実成の本仏といったように、名前も概念もみな少しずつ違うわけです。その違いを見ていけば、対立は解消されるわけではない。結局、みんな違うので、同じ場所へ行き着けないということになってしまいます。
だけれども、ここで言わんとしているのは、もっともっと、ほんとうのほんとうの、たったひとりの神さまなのです。でも、その相手も、「ほんとうの神さまはもちろんたったひとりです」という、教義的な唯一神の信仰をいくら語り合っても、お互いが共通の神さまに行き着くことはできない。でも、そこを超える「ほんとうのほんとうの」というところまで行けば、お互いに理解し合えるかもしれないという暗示のところで、ここは分かれているのです。
●対立を超える道を呈示したブルカニロ博士
鎌田 第3次稿で登場してきたブルカニロ博士は、「対立を超える道があるんだよ」とさとしていく。それは化学のような、あるいは瞑想のような方法が一つ。もう一つは、人の行いによって共通の慈悲のような感情を引き起こすことです。ケアの精神のようなものによって、人のこころの中に感情の共通項を見いだすことができる。このようなビジョンが、ブルカニロ博士を通して語られます。しかし最終形の場合は、現実的に分裂したままであり、解決策もあるようでないというところで終わっているわけです。
―― はい。
鎌田 それによってジョバンニの、難しい解決に至る探究の道が示されます。真の解決は生易しくはないけれ...