●「信仰」は神様からやってくる
―― プロテスタントについてのお話をより詳しくお聞きしたいと思います。先生の本の中で大変印象深かったのが「回心」という考え方だったのですが、これはどのように理解すればよろしいでしょうか。
橋爪 前回申し上げたように、キリスト教の信仰には、「人間のわざなのか、神のわざなのか」という問題がある。「わざ」というのは、「やること」という意味です。
仮に「信仰すれば救われる」としましょう。もし人間が信仰するかどうかを決めているのだとすると、「神がいるか、いないか」「神を信仰しようか、しないか」と迷って、「私は神を信仰しましょう」と自分が決断して決めたとします。
―― はい。
橋爪 このとき、「その人に信仰があるから、神は救う」ということになるのだとすると、神は信仰のある人を救わなくてはならなくなります。それは、人間が神に「救いなさい」と命令していることになるわけです。だから、これは「神強制」といって、キリスト教では取れない考え方です。
―― なるほど。
橋爪 でも、信仰は大事でしょう。ただ、信仰は本人の決めることではないとしたら、どこから来るのか。神から来る。神が「サブロー、お前は神のほうを向きなさい」と、電波かなにかで働きかけてくることを「聖霊」と呼びます。聖霊が働きかけるから、神のほうを向き直る。これが信仰であり、向きが変わるので、このことを「回心」と呼びます。
ここまで、信仰が神から来るということはわかりましたか。
―― 「自分が信仰する」というと、自分のほうが神よりも上になってしまう。だから、その立場は取れないということになるわけですね。
橋爪 信仰するかしないか迷って「信仰する」というケースはあってもいいが、自分で決めているのではないということです。
―― それも、もう神のお導きであるということですね。
●不信仰の「ぐるぐる」から信仰の「ぐるぐる」へのジャンプ
橋爪 そうすると、人間は2種類に分かれます。まず、どういうわけか神様を信仰している人がいます。
「神を信仰しているということは、神に信仰させていただいているのである。神の恵みが私に及んでいるのである。こんな有難いことがあるなら、ますます神様を信じましょう」
こう言って、昨日も信じ、今日も信じている。「二日連続で神様の恵みが来ているのだから、ますます信仰しましょう」と。神を信じることができているということが、神を信じる理由になって、信仰がぐるぐる自己増殖して強まっていくわけです。このロジックはわかりますか。
―― これは、自分が信じて信仰できていれば、きっと神の恵みがあるに違いないというイメージですか。
橋爪 恩恵があるに違いないのだから、救われると信じて信仰しましょう、ということですね。
―― なるほど。
橋爪 もうひとつのタイプの人間は、信仰に確信が持てないわけです。私は救われないのではないかと、神のことを信じることはできないと思うので悩みます。
―― はい。
橋爪 こんなに悩んで信仰が持てないのは、私が神に見捨てられて見放されているからではないか。そのようにウジウジしていると、ウジウジしていること自体が心配・不安の原因になり、心配・不安があることが、信仰がないことを帰結する。この「ウジウジ不信仰」というものがぐるぐる増殖して、ここからはみ出ることができなくなってしまう。これはわかりますか。
―― わかります。
橋爪 さて、最初に言った「信仰ができて、ぐるぐるする人」も、「信仰ができなくて、ウジウジぐるぐるする人」も、「ぐるぐるする」という点は同じです。
―― はい。
橋爪 しかも、「ぐるぐるする」ということには理由も根拠もありません。それは、神に教えてもらっているわけではないからです。ということは、どちらも似たようなものです。
―― 「ぐるぐる」では一緒だということですね。
橋爪 「ぐるぐる」では一緒。そして、「ぐるぐる」には、自分を根拠づける力がない。だから、何かの加減でウジウジ不信仰の「ぐるぐる」が突然ポーンと「信仰できる。ああ、恵まれている。だから、やっぱり信仰する」という信仰の「ぐるぐる」に変わってもいいわけです。
―― はい。
橋爪 だけど、自分からは変わることができない。外から力が働くことが必要です。
―― それが先ほどのプロテスタントの論理で、「神が決める」ということになるわけですね。
橋爪 その外からのきっかけというのは聖霊が働いてくるのであって、本人としては全く意外な劇的な経験になるわけです。
―― なるほど。
橋爪 「あるとき、神が私にじかに働きかけた」と感じて、そう感じた途端に、今までウジウジしていた不信仰な人間が、信仰深い敬虔な人間に生まれ変わってしまうわ...