●地理的特性で「日本とは何か」を考える
3番目に挙げたいキーワードですが、そうなるとやはり「自然との共生」というのが非常に重要になるんだなということであります。そういう意味で、キーワードはそのぐらいにして、正式に、「日本とは何か」ということに触れておきたいと思います。
日本とは何かというと、日本を語る語り方はいろんな方法がありますが、非常にフェアに語る語り方は何かということです。フェアと言っているのは、要するに自己流、例えば田口流で私しか通用しないような、そういう観点でいうわけではなく、誰しもが納得する方法で日本を語るということです。
それは地理的特性ということでお話をするというしかありません。地理的特性とは、要するに日本の地理の特性のことですから、今、この場所のことで、場所を変えようとしても変えられない。場所が変わらないということは風土も変わらないということです。ですから、そういう意味でまず日本の地理的特性の第一は、森林・山岳・海洋・島国国家という地理的特性のことです。
これはとっても重要なテーマですから、再三再四、この講座でもみんなで考えてみたいと思います。今回はそこをまず理解していただくために、森林・山岳だけ取り上げます。森林・山岳からわれわれはどういう伝統が生まれたのかということを解説しておきたいと思うんですが、森林・山岳性からは2つ挙げておきます。
●神の発見と本居宣長
まず第一の伝統ですが、先ほどから言っている神の発見です。これは日本は神道の国であるということで、間違いないと思います。しかし、神道という言い方は江戸時代に話すんだったらそれでいいんですけど、現代において、神道というともう国家神道ということになってしまうわけです。私が言っている神道は、国家神道という意味での神道じゃない。どっちかというと神信仰、要するに古代日本に生きていた信仰心としての神道を申し上げているのです。
なぜ、そういうふうにことわらなきゃいけないのかというと、戦争中の軍部の勝手極まりない解釈によって、神道というものの本当の姿が大きくねじ曲げられて理解されているからです。
私は、そういう意味で、どこに立ち返って神道を論ずるべきかというと、本居宣長です。彼が説いているのは『古事記』で、これを「ふるごとふみ」と読んでいます。『ふるごとふみ』における神の存在ということで、そこにおいて非常に重要なのは、漢意(からごころ)が入る前の自分の国です。漢意とは何かというと、外国文化が入る前の日本ということです。いつから入ったのかというと、530年代に仏教が入ってきたといわれます。その前に儒教が入って、その前に老荘思想が入ったといわれています。だから、そういう外国文化が入る前の、俗にいう大和心(やまとごころ)です。ここを徹底的に問う必要があるということです。
●神は見るものではなく、感じるもの
本居宣長のいっている、要するに「神信仰」というものの基本的な概念は何か。それは、日本の古いお社の御神体というものがどこにあるかということにも表れているんですが、全て自然にあるということです。これはどこへ行かれてもそうですが、宗像大社へ行かれても、大神神社に行かれても、「こちらの御神体は?」と尋ねると、「あの島です。沖ノ島です」とか、「あの後ろの山です」とか、そういう話になります。
だから、古いお社は、戦前ぐらいまで、特に江戸時代には本殿というものはないのです。だいたいが遥拝所(ようはいじょ)、拝礼場所だけなのです。御神体なんていうのは要するに自然にあるわけです。簡単にいうと、森林・山岳などの、森の奥底に人知を超えた巨大な力があり、それを神と呼ぼうということで、まず神の発見というものが出てきたのです。
今も申し上げたように、自然が神ですから、自然というものから神を感じ取らなきゃいけない。感じ取らなかったらすぐ消滅するという信仰です。神を全然感じないというより、金のほうがよっぽどいいという人には、神の存在は感じないでしょう。神は見るものじゃない、感じるものだと言っているわけですから。そういう非常に危うい世界というものが連綿と、時代を超えていまだに生きているというところなんです。
その象徴として、日本は多神教の地域であるということです。多神教というのは神様がたくさんいるということです。こういう地域は世界広しといえども3カ所しかない。それはギリシャ、インド、日本です。そういう意味で、世界で3つしかないと言ったら、それだけで特性ですが、実は他の2カ所と全然違うわけです。
日本は神の像を持たないのです。なぜ持たないのか。持ちようがないのです。自然だから。自然イコール神、神イコール自然。そういうものにわれわれは心のあらん限りを尽く...