●松平定信の器量を示す早熟な読書歴
少し私たちからかけ離れた例を取り上げてみたいと思います。
皆さん、どなたでも日本人であればほとんどお分かりのように、18世紀から19世紀の頭に活躍した徳川幕府の老中、松平定信という人がいました。定信は、徳川吉宗8代将軍の孫であり、同時に彼は11代将軍の家斉に老中として仕えた、江戸時代、日本の近世を代表する政治家でありました。
彼は子孫への指針として、自伝の『宇下人言』(うげのひとこと)という書物を書きました。これは岩波文庫にも入っている小ぶりの本ですが、そこにおいて、自分の読書歴を生活歴と重ねて披露しています。私たち平成の日本人、少なくとも今の私からすれば別世界のように感じる点があるというのが率直なところです。しかし、この別世界であるということも私たちの先人の一面であるということを承知で紹介してみると、このようなことを言っているのです。
松平定信は、自分は7歳のときに『孝教』を読んだと言っています。『孝教』というのは、孔子が門人の曽参(そうしん)に孝道、すなわち親に対する孝行とは何かということについて述べたのを記録した経書であります。四書五経の流れです。その経書を読んだと言っているのです。
8歳、9歳になると、あの有名な修身、治国、平天下、すなわちまず自分の身を修めて、次に国というものを治めていく、そのことによって天下を平らかにする、世の中全て天下を平和にしていくと、こういう道を説いた書物、これが四書の一つでもある『大学』ですが、これを8歳、9歳で読んだというのです。
11歳の頃からは、自分は将来政治に携わるということを自覚したということなのでしょう。「治国の道」を積極的に学ぼうとして、思いついた工夫を自分で書きつけたと言っています。自分で本を書いた、図にも表現したというのです。
12歳になった時に彼は何を触れたかと言うと、『自教鑑(じきょうかがみ)』を書いたと言っています。これは人倫の道、人間の守るべきモラルとは何か、あるいは君主はどのように政治を行うべきかという義務などについて触れた書物だというのです。自ら著すことによって自らを戒めてくという、こういう心得にしたというわけです。
今の私たちからすれば、少なくとも私からすれば、まことに考えられないほど早熟であり、かつ私たちとの時代の違いを差し...