●12000里の彼方、南の大国・邪馬台国
こんにちは。早稲田大学の渡邉義浩です。
私は『三国志』を中心に学問をしていますが、本日は『三国志』の一部である『魏志倭人伝』の話をしたいと思います。『魏志倭人伝』というと、日本史、あるいは考古学から語られることが非常に多いのですが、私の場合にはそういう視点ではなく、『三国志』の中から見ていくので、その視点ではこのように卑弥呼あるいは邪馬台国は見える、そういうお話になります。
『三国志』から見た邪馬台国がどういう国であるかというと、非常に遠くて、南方にある国で、しかも大国であるということです。この「遠くて南にある大国」、それが邪馬台国なのです。具体的には魏の東南、帯方郡あたりから12000里の彼方となります。
当時の中国の世界観は、「方万里」(方一万里)というものです。つまり、世界の中心は魏の洛陽にあり、その洛陽から三国の端まで全て5000里と見ているのです。また、その四隅を結んだ一辺が10000里の四方で囲まれているものが中国である、という考え方が「方万里」です。その囲まれた北の一辺に城があるので「万里の長城」と呼ばれるわけですが、万里の長城という言葉そのものは三国時代にはまだなく、5世紀の『宋書』に初めて出てきます。つまり、国を囲む四方の一辺が10000里であり、その端から12000里のところにあるということですから、当然非常に遠いということが分かります。
ではどちらの方にあるかというと、会稽郡(かいけいぐん)の東冶(とうや)の海上のかなり沖の方、ものすごく南にあるということが分かります。しかも邪馬台国は方五千里と考えられています。中国が方一万里ですので、それから比べてもかなり大きな国であるということになります。人口も多くて(当時で)75万人ということですから、大国といっていいと思います。
●倭人の記述が非常に多い『三国志』
そのようなイメージがどうやって作られていったのか、それが私の関心の中心になっていきます。そうした邪馬台国がどこに書かれているかというと、『三国志』の巻30『東夷伝』があるのですが、その中の「倭人の条」が日本でいうところの『魏志倭人伝』になります。『三国志』全体が37万字あるので、『魏志倭人伝』が2000字しかないということは、非常に少ないということです。
しかし、2000字しかない倭人伝が、『三国志』の異民族に関わる記録としては異例のものなのです。『三国志』は、例えば日本の隣の韓国のことも書いてありますし、北の方には鮮卑や烏桓(うがん)など非常に強力な民族がいたのですが、そのような民族全てを抑えて倭人のことが一番たくさん書かれているという、極めて異常な本なのです。中国には『三国志』の前の『史記』『漢書』から始まって、二十四史といわれる正史があります。その二十四史において、日本の記録が異民族の中で一番多いのは『三国志』だけなのです。
そうすると、「なぜ、そんなに日本を重視しているのか」ということを考えなければいけないわけです。著者の陳寿という人がなぜそのように書いたのか。あるいは、三国時代の国際関係がどうして倭国をそのように描かせているのか。そのようなことを考えると、この『魏志倭人伝』の2000字というものの中に、全て事実が書いてあるわけではないし、全て虚構なわけでもない。つまり、理念の部分と事実の部分を分けていかなければいけないのではないか、と私は考えています。
もちろん、邪馬台国には白鳥庫吉から始まっていく九州説、あるいは内藤湖南から始まる大和説、それ以前の本居宣長の説などさまざまなものがありますが、そのような説は一度横に置いて、『三国志』から見ていった場合、どのように考えることができるのか。その点に問題を限りたいと思います。
●『三国志』の中の二つの貴重な王号「親魏○○王」
そうなると、『三国志』の中で卑弥呼に関して気になることは、「親魏倭王」という称号をもらっているということなのです。異民族でありながら王号をもらっているのです。王というのは上に皇帝しかいませんから非常に高い称号です。韓国は王号をもらっていませんから、なぜ卑弥呼が王号を持っているのか。しかも「親魏」と魏の国名が入っているので、王号の中でもかなり貴重なものだと思われます。
その「親魏○○王」というような王号を与えられているのは、『三国志』の中では二つしかありません。一つが親魏倭王であり、邪馬台国の卑弥呼に与えられたもの。もう一つが「親魏大月氏王(しんぎたいげつしおう)」です。親魏大月氏王と呼ばれるものは、クシャーナ朝のヴァースデーヴァ王です。クシャーナ朝の全盛期を築き上げたカニシカ王は世界史の教科書にも出てきます。ガンダーラ美術が出来上がったり、日本に入ってくる大乗仏教が成立したりした...