●頻繁な使者派遣から分かる倭国と曹魏の堅密性
倭国と曹魏(魏)は非常に密接な関係を持っています。先ほども申し上げましたが、『史記』から『明史』までの中で日本に関する列伝が含まれるものは14あり、また、異民族の中で日本に関する記録が一番多いのは『三国志』だけなのです。さらに、私は景初3年説を採るのですが、景初3(西暦239)年から正始8(西暦247)年までの9年間に倭国から曹魏に使者を派遣したのが4回、曹魏から倭国に使者が派遣されているのが2回ということになります。
日本と中国の親しい関係というと、遣唐使のイメージが湧くのですが、実は遣唐使は約18年に1回しか行っていません。その遣唐使に対して、倭国から曹魏には4回行っています。また、遣唐使のお礼に日本まで使者が来るというようなことはそんなにはありませんでした。それに対して、倭国には使者が来ているわけです。
そういうことを見ていくと、はるかに緊密性が高いのです。魏にとって非常に重要な国として倭国が認識されていた、ということが分かってくると思います。
●魏に対抗するため海戦に活路を求めた呉
では、なぜ倭国が重要だったのか。それは、先ほどお話ししたように、司馬懿(しばい)が呼んできた国ということが一つ挙げられます。そして、もう一つは地理的な条件です。
三国時代に魏、呉、蜀が戦った中で一番有名なのは、赤壁の戦いです。圧倒的に強かった魏が呉に負けるわけですが、なぜ負けたのか。単純にいうと、船の戦いであったから負けたのです。曹操の戦いの手段は騎兵を主力とした平地戦で、北の方(魏のあたり)で戦う戦い方なのです。海での戦い方は極めて苦手だったのです。逆にいうと、呉としては海で戦うことによってのみ活路があるということです。したがって、呉(孫呉)は何をしているかというと、南の方にある交州、今のベトナムの中部と考えていただいていいと思いますが、そこまで支配下に置きました。さらには扶南という国(具体的には今のカンボジアのイメージ)、そして林邑(今の南ベトナム)、そして、堂明(今のラオス)、このあたりを支配下に置きました。これら当時のベトナム、ラオス、カンボジアにあたる国々は呉に対して貢物を持っていっています。つまり、まず南に対して朝貢関係を持ったということです。
そして、東に関しても最も重要だということで、一生懸命に探索をしています。具体的には何を探していくのかというと、台湾にたどり着いていますし、あるいは海南島にもたどり着いています。ただ、そこにたどり着いた人たちは目的が達せられていないという理由で殺されています。行きたかったのはそこではなかったのです。では、どこなのかということになると、当然『漢書』の時代から記録が残っている倭国を探していたと考えるのが普通だと思います。
●鏡が示す呉と倭国の関係
もちろん、陳寿は知っていてもそのようなことは絶対に書いてはいけない、書けないことですので、『三国志』の中に呉が倭国に使者を出したというような記録はありません。しかし、例えば、呉の鏡が日本からも出土しているのです。呉という国は北側の公孫氏(遼東半島)と同盟関係にあり、そして日本は公孫氏に朝貢していました。よって、公孫氏の元にあった呉の鏡が公孫氏を経由して日本に入ってくるのは普通に考えられることで、そういう鏡もたくさん出土しています。ただ、公孫氏が滅んだ後の鏡も日本に伝わってきており、出土例が2例あるのです。
もちろん、考古文物は動いていくので、鏡があるということがそのまま「呉が使者を出した」「倭国と関係があった」とは直接的には言えません。しかし、呉という国家が東方で一生懸命、倭国と関係を持とうとしていたということは、はっきりと分かるのではないかと思います。
●西晋の公式見解「海を渡ってやってきた大国・倭国」
そして、魏がそのことを察してなんとかそれに対抗しようとします。ただ、水軍を持っていませんでした。具体的には公孫氏と呉が通交をしていく時に、今の威海衛(遼東半島の突端のところ)から船を射て矢が届いたということですから、その当時の海洋技術からして随分と浅いところしか通れなかったのだな、陸を見ながらでしか走れなかったのだなということが分かります。とにかく、魏は船に対して陸から矢で射るといった攻め方しかできなかった国なのです。
そういうことになってくると、海を渡って使者が来たということは、魏にとって非常に重要なことであったのです。しかも、それが単なる魏の人ではなく、やがて魏を滅ぼしていく西晋という国家の祖先に当たる司馬懿によって平定されたので来たということで、これは極めて重要なことですし、それが一回だけではなく、魏の時のみならずさらに何回も来ているのです。そのような関係か...