●高直しには二種類ある
皆さん、こんにちは。
長府毛利家、毛利秀元と同じ周防岩国の吉川広家の話の続きになります。前回、秀元が毛利輝元に命じられて検地をしたところ、多くの高を得た。すなわち、検地の結果、徳川家康から領有が認められた三十万石から七十八万石に増えたという話をしました。
これは大変結構なことだと皆さんは思うかもしれませんが、実は検地の高が直されるというのは、二種類あるのです。一つは、新田開発などによって「荒蕪地」(こうぶち)と呼ばれる本当に荒れた土地が、水田にふさわしい豊かな土地になって高が増えたというケースです。
もう一つは、実際の生産高は変わっていないけれども、本来米作などできないようなところまで厳密に高を換算するというケース。その結果、百姓たちは苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を受け、年貢を厳しく取り立てられる。つまり、実際の生産高は変わっていないのに、百姓に課せられる高は三十万石から七十八万石になるとすれば、その差額に関しては百姓が負担することになりかねないわけです。こういう高直しもあり、これは非常に悪い方式なのです。
このように、高直しには大きく分けると二種類あるということを、念頭に置いてください。
●大名としての格を高くするための高直しも
このように高直しをすると、今度はそれに合わせて家臣や蔵入地といわれる大名の直轄地も増えるということになります。それに応じて、例えば毛利秀元自身は、最初三万六千二百石という石高を与えられていたのが、五万八千石になりました。この差額は、検地をして高直しをした結果によるものということになりますが、これは多かれ少なかれ、百姓たちの負担としてかかってくるということに、私としては注意を喚起しておきたいのです。
この高直しのケースが百姓ばかりに負担がいったかどうかというのは疑問ですし、また、証拠もありません。しかし、高直しのケースが新田開発だけでもなかったということで、その二つを合わせて、徳川家の大名は、自分の高直しをし、そのことによって幕府に対して大名としての格を高くしていくことを図ったわけです。こういうケースを念頭に置いて、話を続けていきたいと思います。
●毛利家の単純な家臣ではなく、純粋な大名でもない吉川家
毛利秀元は長府において藩をつくることが認められました。これは本家から認められて参勤交代をする藩になったということです。またさらに、宗家には後に徳山藩という長州藩の支藩がつくられました。後には、清末という藩もつくられましたから、毛利には三分家の藩が認知されたわけです。
ところが、もともとは同じような格であった岩国の吉川広家の子孫たちである吉川家は除かれました。つまり、公式には岩国藩は、毛利自身は認めなかったのです。それは蝦夷地の松前藩のように、ある種特異な存在ではあります。しかし、松前家は徳川幕府にとって、鷹あるいは巣鷹(鷹狩用に飼育する鷹のひな)を献上する、そして、北方において独特の存在感を持ったアイヌとの交易などを通して得られる、いわゆる俵物(昆布、フカのひれ、数の子、身欠きにしんなどのさまざまな北方の物産)といった、物流にとってなくてはならないものを供給する藩であり、米は取れなかったため無高ということにはなりましたが、そのような特異な存在として認められました。
しかし、吉川家はそうではなかったのです。『寛政重修諸家譜』という史料によると、吉川の扱いは次のようになっています。口語に訳すと、「吉川は代々毛利家に所属している。これは大名の一員とはいっても、代替わり、すなわち領主が替わるごとに江戸に参勤して将軍の機嫌を伺い、さまざまな大きな儀礼があるときには、江戸にやってきて祝いを述べる。それ以外には、毛利家に幕府から城や河川の修復といった土木の役を命じられたときは、毛利を通してその仰せを受け、これを務める」と、このように書かれています。
ですから、吉川は毛利にとって単純な家臣ではない。かといって、純粋な大名でもない。非常に不思議な形であって、陪臣、つまり徳川から見て家臣のまた家臣で、大名の家来というわけでもなく、大名というわけでもない。こういう徳川自身がある意味ではその扱いに関して不思議さを感じていたのです。要は、正式の大名ではないけれども、代替わりに参勤交代も行い、毛利家が与えられた土木工事などの負担を担当するなど、他の陪臣とは違っている、といった存在でした。
●大名・高家・交代寄合がクロスする不思議な家格の吉川家
平戸藩主であり、江戸文学で最も有名な武士の随筆『甲子夜話(かしやわ)』を書いた松浦静山(清)は、その中で「吉川氏は萩侯に属す。陪臣の如きものなり」と、『寛政重修諸家譜』と似たようなことを書いているの...