●毛利家に見る「敗者の戦後」
歴史というものは、しばしば露骨に改ざんされます。そして、その解釈に色が付けられるということが、往々にしてあります。しかし、歴史を露骨に改ざんせずとも、その解釈に潤色を加えるのは勝者だけとはかぎりません。時に敗者も、自らの政治選択や軍事的敗北について弁解するために、歴史を修正することがあります。
例えば、私が『文藝春秋』に連載中の「将軍の世紀」との関連でいえば、関ケ原の戦いの後、敗者はどうなったのかという大変興味深い問いを、私は持っています。関ケ原の戦い後も敗者という形で残りながら、しかし、政治的に生き残った勢力の一つとして毛利家があります。毛利の一員を構成した吉川広家は、戦争中に関ケ原における主将であった毛利秀元を参戦させることなく、また、大坂城に立てこもっていた主人の毛利輝元を、徳川と対決させることなく戦場からひき、そして、大坂城から退去させた最大の功労者でした。
この「功労者」とは、徳川家康から見てのことであり、石田三成や豊臣秀頼といった西側の人間たちからすれば、ある意味で非常に悪質な裏切者であったと言うことができるかもしれません。
●徳川からの恩賞を毛利本家に譲った吉川広家
吉川広家は自らの恩賞として、徳川家康から長州藩(今の山口県)の領国である長門と周防を与えられたにもかかわらず、この二つの自分に対する恩賞を改易寸前の毛利本家に譲ったという話が伝えられています。これは誠に美談というべきものです。『寛政重修諸家譜』という江戸時代後期の史料に記載されているところによると、慶長5(1600)年10月3日に家康は毛利輝元の所領を全て召し上げ、関ケ原の恩賞として広家に防長二州を与えると伝えました。
すると、この『寛政重修諸家譜』における広家の言葉を借りると、「広家ひとり上賞をかうぶらんは、宗家を捨て一身の栄をむさぼるに似たり。義にをいて安んじがたし」と述べたとあります。そして、この二国二州を輝元父子に賜うように懇願したというのです。このように史料にあります。
すると家康は、「十日ふたたび広家をめされ、広家一己の栄をむさぼらず、ひとへに宗家をたてんことを願ふ、貞信の志深く感じおぼしめすところなり」、すなわち10月10日に広家を再び呼んで、「広家は自分一人の栄誉栄華をむさぼらず、ひたすら毛利宗家をたてることを願ってい...