●ローザンヌ講和会議でのイスメト・イノニュの「交渉なき外交」
前回まででお話ししましたように、イギリス、フランスなどの列強を相手とした民族運動において、ケマル・パシャ、すなわちアタテュルクがギリシャとの西部戦線を主導し、カラベキルは東部戦線を担当しました。 アタテュルクは、ギリシャを1922年の暮れにアナトリアから駆逐することに成功します。そして、その成果に立って、1922年から1923年にローザンヌで講和会議を開きます。
ローザンヌの講和会議には、アタテュルクは彼の盟友であり、そしてカラベキルとは陸軍士官学校以来の友人であった、イスメト・パシャという人物、これは後のトルコ共和国2代目の大統領であるイスメト・イノニュのことですが、このイノニュとなる人物をローザンヌに派遣します。
イノニュという人物は、非常に不器用な人物でした。ケマル・パシャもイスメト・パシャも、カラベキルのような繊細な外交感覚、あるいは語学力、あるいは教養というような点においては、いずれもカラベキルにはかなわなかったのです。イスメトは特にそうだったわけですが。イノニュは不得意な言葉、外国語でなかなか苦戦します。というのも、イギリスは全権大使としてカーゾン外務大臣が出てくるわけですから。このカーゾンは、インド帝国のバイスロイ、つまり副王も務め、そして、本国イギリスにおいては外相をずっと務めていた、こういう名うての植民地帝国の経営者でした。このカーゾンが出てくる外交会議、講和会議です。そこにイスメトが出かけていく、これだけでも不思議な絵になるのです。
さて、カーゾンはどうしたか。あるいは、イスメトはどうしたか。カーゾンは、弁舌豊かにいろいろと、説得していく。敗戦国に対して、講和というのはこうあるべきものということを説いていく。
イスメトはどう対応したかというと、次の二つのようなことをしました。一つは、ケマル・パシャから受けた訓令を、一字一句も逃さずそこから逸脱しないようにした。ですから、交渉ではないのですね。自分はそこから絶対譲らない、ということを何回も繰り返すだけです。
そして、2回目はそれでも不都合になると、彼は聞こえないふりをしたのです。何回も聞き直したり、聞こえないふりをする。実際に彼は耳が遠かった部分もあるようではありますが、聴力にさながら障害があるようにして、この二つを武器に交渉をしました。「こういう外交交渉の仕方もあるのか」という見本のようなやり方です。
カラベキルのような洗練された形で外交交渉を展開し、ロシアさえそれに対して譲歩させ、屈服させていく力、というのも外交であれば、イスメトのように、目標とする線から一歩も出ない、逸脱しない、そして、都合が悪くなると聞こえないふりをする、だから、外交交渉にならない外交というのもあるわけで、イスメトはこの後者の形の外交に終始したのです。
●結果的にトルコに大きな成果をもたらしたローザンヌ条約
かくして、このローザンヌ条約の交渉は1回途絶しました。途絶して、1923年にまた改めて再開されました。ですから、2回、こうした外交交渉が行われたのです。そして、結局のところ、トルコ共和国になっていたトルコは、自分たちに有利な条件を、イギリス、あの大英帝国にのませるということになるのですが、その大英帝国も絶対のめなかった条件というのがありました。
それは、産油地帯としてイギリスが国連の委任統治として事実上植民地とすることが予定されていた、イラクの北部のモースルやキルクークといった油田地帯です。モースルは、今回、今進行中の北イラクの危機でもお分かりのように、スンニ派のアラブ人も住んでいますが、同時にクルド人たちもその地域には多く住んでいる。そして、何よりも、表面にはあまり出てこないのですが、トルクメン人というトルコ系の住民たちが、もともとそこには多く住んでいたのです。
トルコからすれば、このモースルを含めた地域、これはトルコに入るべき地域であるということになります。当時は、アラブ人の住民たちは非常に少なかったのです。今は増えましたけれど。イラクの独立等々に伴って支配してきたスンニ派系の人々、特にバース党やサダム・フセインのもとにおいてクルド人やトルクメン人たちが圧迫され、スンニ派のイラク人たちが増えたということもあり、今では様変わりしました。
トルコは、こうした形で「モースルは石油があるから譲らない」と主張しました。これに関しては不思議なことになりまして、モースルを含めた部分は、「・・・・」と点線で示すような国境未確定のままで条約を結び、実際にはこの帰属は、その数年後の帰属協定で別な取り決めを結んで、モースルがイラク領、すなわち実質的にはイギリスが当時領有するということに...