●「おまえは何者か」ではなく「何が私であるか」
執行 実は死生観は、昔はみんな持っていました。多くの人が持っていて、昔は人生を楽しんだ人が多かったのです。死生観は、それほど高尚なものではありません。僕が小さい頃までの人がよく言ってたのは、「家族に囲まれて、俺は畳の上で死にたい」というものです。これが本当に死生観として腹に落ちると、昔の日本がそうだったように、離婚なんてありません。女房がどんなに嫌だろうが、へちゃむくれだろうが、悪魔だろうが。離婚したら、家族がいなくなりますから。
―― 子どもも孫もいないですからね。(死ぬときに)囲まれないですね。
執行 この「家族に囲まれて畳の上で死にたい」という死生観は、一番庶民的ですが、これも立派な死生観です。これだけで離婚しないで済みます。
―― 幸せになれますね。
執行 まあ、幸せかどうかはわかりませんが。
―― 家族は残せます。
執行 自分が若い頃に立てた志の人生は、全うできるわけです。それが嫌な女房であれ、とんでもない子どもであれ、一応、死ぬときに畳の上でみんなに囲まれて死ねる。それは「まあ、よかったんじゃないか」という人生です。
人生は「まあ、よかった」でいいのです。僕もそのつもりです。「いい人生を送ろう」と思っているから、現代人はダメなのです。人生はダメでいいのです。
―― ダメでいいんですか。
執行 現代の一番の問題は、「幸福にならなきゃダメ」「成功しなきゃダメ」と思っていることです。こんなのは、本当に強欲です。ただ昔でいう、そういう「はしたない夢」を持たせないと、消費文明上はダメなのです。「はしたない夢」を持たせると、みんなガツガツとがめつく稼ごうとします。だから、今のようになってしまった。
しかし、実はこれは間違いで、人間はいい人生を送る必要がない。不幸でいいのです。不幸が悪かったら、誰も人生なんて生きられません。僕は「不幸の許容」と言っていますが、不幸を嫌だと思うから、今の人は、これだけ臆病になった。僕は「不幸でいい」と思っているから強いです。「不幸、大いに結構、いつでも来い」と思っていますから。人生は、出世しなくてもいいし、金も要らない。ダメでいいと思っています。
僕の1つの望みは、子どもの頃に立てた志、武士道的な生き方を自分が死ぬまで貫くこと。それさえできれば、自分の人生は良いと思っています。
―― 生きざまが、それで貫けますよね。
執行 乞食だろうが貧乏だろうが何だろうが、泣き言もいわず、人に文句もいわず、自分の力だけで独立自尊で生きられれば、50歳で死のうが、80歳で死のうが関係ない。
それで、昔の人の言葉だと、「夫婦そろって同じ墓に入っている」。僕が小さい頃、「夫婦関係なんて、どうでもいい。同じ墓に入れば、それでもう立派な夫婦なんだ」と、あるおばあさんにいわれました。夫婦は、愛も要らない。「仲がいい」も要らない。顏もどうでもいい。性格は特にどうでもいい。同じ墓に入れば、それが夫婦なのだ、と。
浮気なんかどんなにしたって関係ない。「浮気したって、相手の女はうちの墓に入れないから」と言っていました。僕はこれは立派な死生観だと思います。だから、とんでもない夫だろうが、とんでもない女房だろうが、離婚もしない。そんな一つの家族観を持った国ができたのだと思います。これも「無常」から生まれたものです。
人間は、この流動的で不合理な世の中にみんな投げ込まれた。別に成功するわけでもない。幸福になるために生まれたのでもない。輝くために生まれたのでもない。そう昔の人は思っていました。
―― 不条理で当たり前だったんですね。それぞれ持って生まれた定めを持っていると。
執行 西洋も同じです。西洋もキリスト教思想の中で、人間は生まれて、いろいろつらいことがあるのは当たり前。そこから出てきたのが、西洋の場合は信仰だった。キリスト教です。でも、これが西洋もなくなってしまった。
―― やはり、そういうものがあると、わきまえがあったわけですね。
執行 そう、おっしゃるとおり、わきまえです。だから死生観がないと、わきまえも出ないのです。わきまえは簡単に出るものではなく、わきまえのある人はみんな自分なりの死生観を持っています。
僕がここでいいたいのは、今のこの消費文明の中で、現代人はどのくらい大変で、大仰で、不可能なことを考えさせられているか、ということです。今の人が一番苦しいのは、国家からも家族からも会社からも、「おまえは何なのか」を突きつけられていることです。
―― 「おまえは何者なのか」と。
執行 これは平等主義や民主主義から出てきた言葉です。哲学用語で「アプリオリ」といい、「先験的」「生まれながら」という意味です。実は、これは人間にとっては...