●「無常」を勇猛心で表したのが武士道
執行 では「まこと」を、なぜフーシェが持っていたかということで、話が死生観に戻るのです。フーシェは「自分がどうやって生き、どうやって死ぬのか」を、もう子どもの頃につかんでいた、ということが私はわかったのです。
―― やはり、つかんでいたのですね。
執行 つかんでから代議士になったのです。もう腹を括っているのです。覚悟がある。だから、かえって翻弄されなかった。
―― どんなに状況が変わっても。
執行 僕も武士道だけで生きてきたから、似ているかもしれません。わかり合えるというか。
―― 時代が寄ってきている感じですね
執行 時代が『葉隠』や武士道に寄ってきたというか、日本文化に寄り添おうとしているように思います。「武士道」というと特殊ですが、要は「無常」をどうやって表すかです。武士道は、無常の哲学を勇猛心で表そうとしている、男の美学なのです。
―― 勇猛心で表そうとしている男の美学。
執行 その男の美学が、武士道です。ただし表そうとしているのは「もののあはれ」であり「無常」です。日本における仏教は、これを宗教や信仰として、神や仏などと結びつけて無常を説いているのです。日本の禅も、すべて無常です。鈴木大拙の『日本的霊性』や『禅と日本文化』なども、書いてある内容はインド哲学ではなく、全部、無常観です。道元の『正法眼蔵』と鈴木大拙が書いている内容は、何も変わりません。
―― 同じなのですね。
執行 同じです。全部無常。「人間に生まれた無常をわかれ」ということです。人間は常ではない。無常とはイコール不条理で、不合理。これを抱きしめよと言っているのです。
―― 抱きしめなければいけないんですね。
執行 抱きしめると次に、自分の運命を愛せるようになります。そのためには、宿命を認める。そうすれば自分の運命を愛することができます。すると今度は、自分の人生に体当たりができるようになる。これが僕の理論です。その体当たりの方法が、武士道や禅、仏教の日蓮宗など、全部やり方が違うのです。
―― それは、やり方が違うのですね。無常の表し方が違うんですね。
執行 武士道なら『葉隠』、仏教では般若心経というものがあります。般若心経も僕は大好きで、あれは『葉隠』と一緒です。あれも死生観を語っていて、「人間とは死ぬ存在で、宇宙の混沌に呑み込まれて、もともと何もないのだ」ということが書いてあります。何もないのだから、突進する。般若心経の最後に「羯諦 羯諦 波羅羯諦(ギャーテイ、ギャーテイ、ハーラーギャーテイ」という言葉があります。あれはインドの梵語を訳した言葉で、「突進せよ」という意味です。「突撃せよ、突進せよ、突き進め」。それがインドの梵語で「羯諦」です。般若心経は日本の仏教の精髄といわれ、日本仏教は全部、般若心経を一番大切にしています。
その最後に言っている言葉は、「この世の中には何もない、命もない、息もない、何もない」というものです。生もない。だから、われわれは生きていると思う、この「生」もない。
僕は武士道なので「死の哲学」が好きですけれど、「死」もない。何もないと。本当は存在もないのだけれども、とにかく認識体としてこの宇宙にある(存在している)のなら、ただただ突き進めと言っている。これが般若心経です。「羯諦 羯諦 波羅羯諦」です。だから僕は好きなのです。武士道と一緒です。だから、武士道を宗教で表すと、般若心経になります。それを男の世界の戦いとして描いているのが、武士道なのです。
●愛から生まれたものが「魂」で、肉体は借り物である
―― 勇猛心で表したら、武士道になる。
執行 勇猛心で「無常」を実現しようとしているのです。原始キリスト教もそうです。原始キリスト教は、ローマ帝国の国教になる前は、ほとんどの人が磔(はりつけ)になりました。初代ローマ法王の聖ペトロをはじめ、全員が磔です。300年にわたって、信者全員が死んだ宗教がキリスト教です。要は、無常です。西洋はこのキリスト教を取り入れることによって、信仰が生まれました。中世1000年間、この信仰だけです。そして、この信仰の中心思想が「死を思え=メメント・モリ」です。天国に行くために生きるのが、人間の生だと。天国に行くとは、「永遠の生命」を意味します。永遠の生命を目指して生きるのが人間の生で、だから現世でどれだけつらくても関係ないとなるのです。
永遠の生とは、つまり魂です。魂に生きること。魂に生きた人間は、肉体が朽ちても魂は必ず残ります。物理的な言い方をすると、魂を持って生きた人間の魂は、誰かに受け継がれるということです。これは「生きている」ことと同じです。僕も魂の人間で、僕の思想に共感する人はけっこういます。だから僕がいつ死んでも、僕の魂...