●ハードな外観と裏腹に「中庸」を重視したビスマルク
本村 30代の若きビスマルクは、文章をやすやすと読めるし、煙草をふかしたりしながらいつも男っぽい身なりをしていて、物怖じせず、非常に落ち着いて馬に乗っては、狩りの獲物を肉屋のように正確にさばいたと言います。また、酒も相当強く、他の人を酔いつぶしてしまうぐらいだったそうです。ということで、性格的に男っぽい部分を持っていたのでしょう。
そのような強硬な側面もあれば、実に繊細にいろいろなものを見ている人でもあった。それはドイツ帝国成立後もそうで、そこには(「独裁の世界史」シリーズの中でお伝えしました)「中庸を心得よ」とか「ヒュブリス(傲慢)になるな」というような戒めが、もしかしたら彼の中にはあったのかもしれません。それは、彼の見てくれからではなく、やはり歴史的に見ても、そういう資質を持った政治的な指導者であり、独裁者としてはいいほうの部類に入る独裁者ではないかなと私は思いますね。
―― そうですね。当時のオーストリアやフランスを連覇していくほど強かったのに、「足るを知る」というのでしょうか。先生がおっしゃるように、ドイツの領域を固めればそれでよしとするところなど、まさに中庸的な発想でしょう。また、社会主義を弾圧しつつ、一方では社会福祉を政策として取り入れていくところも、ある種、中庸の形のようですね。
●「黄禍論」を唱えたヴィルヘルム2世の焦りとは
本村 ドイツがビスマルク路線をそのまま踏襲していれば、第一次世界大戦やその後の第二次世界大戦という、あの2回の大きな失敗を回避できたかもしれないと言われます。ところが、ヴィルヘルム2世が非常に独断的で、短気な人でした。ビスマルクは、「この人物が指導者になったらどうなるか」と少し危惧していますが、実際その局面に突入する前に彼は亡くなってしまいます。
しかし、実際にドイツは結局、オーストリアの皇太子(夫妻)が射殺されたという小さな事件(サラエボ事件)を踏まえて戦争に踏み切る。今われわれは「第一次世界大戦」と呼んでいますが、あの時点では誰もあれほど大きな戦争になるとは思っていなかったとよく言われます。何かくすぶっていて、何となく収まるだろうと思っているうちに、だんだん外の勢力とつながっていって、大きな対立を招いてしまった。
ドイツには、ロシアに対抗しようという...