●ビスマルク登場とドイツ・プロイセンの発展
―― 「独裁の世界史」では、今度はぜひドイツのビスマルク(オットー・フォン・ビスマルク)のお話をうかがえればと思っています。
テーマとしては「良い独裁・悪い独裁」のようなことになってくるのかと思います。歴史的経緯をいうと、まさにビスマルクが出てきたのが、フランス革命の後、ナポレオン戦争の結果を受けた形になろうかと思うのです。ドイツはそれまで、まだ神聖ローマ帝国があったのが、ナポレオン戦争で完全に消滅してしまいます。
その後、ドイツという国ができてくる過程で活躍したのがビスマルクということになりますね。このビスマルクという人が果たした歴史的役割は、どういうかたちになりますでしょうか。
本村 今、ドイツとおっしゃったけれど、ドイツというよりプロイセンを考えてください。われわれが今ドイツと呼んでいる場所にオーストリアも加えたぐらいの大きな範囲に、ドイツ語圏があります。その中にさまざまな領邦国家がありましたが、プロイセンがそれらの主導権を握ろうとします。また、ビスマルクの時代というか、彼の仕えたヴィルヘルム1世の時代にプロイセン王国が強大になり、ドイツ帝国が生まれるということが起こってくるわけです。
一方、ナポレオンから数えると甥っ子に当たるナポレオン3世がフランス王として君臨し、帝政の時代を迎えていました。彼は彼なりにフランスを帝政の下で引っ張っていましたが、それに対抗する形でのし上がってくるのがプロイセンです。やがて、1870年にこの両者の戦いが起こり、プロイセン軍が勝利を収めることが、その後のドイツ帝国成立の大きなきっかけになるわけです。
●「鉄血宰相」のイメージは、左傾化した日本の名残?
本村 ビスマルクという人は、私などが若い頃に聞いた歴史の話では「鉄血宰相」のイメージが強かったものです。非常に強硬で、いろいろなものを弾圧して抑え込み、それでプロイセンがのし上がっていったようなイメージで捉えられていました。その一つの理由に、おそらく日本の戦後が非常に社会主義かぶれした時期を経験したことがあります。社会主義者や共産主義者を抑え込んで弾圧したビスマルクに対して、そういうイメージが強かったのではないかと思います。
最近の歴史学では、史料の読み込みが進んでいますので、ビスマルクにはそういう強硬な面もあったけれども、それ以上に「先を読む」能力が非常に高かった点が評価されています。先を読んだ上で、独裁的権力をどのように振るうかということを判断できた優れた人物ではなかったかと最近ではいわれているわけです。
例えば、ビスマルクは、第一次世界大戦を予言したようなことを言いました。19世紀末、ビスマルクがちょうど宰相の地位を辞退して公職から降りた時のことです。彼は、ヨーロッパでもう一つ戦争があるとすれば、バルカン諸国での馬鹿げた出来事からだろう、と言ったそうです。まさに実際、その通りになったわけです。
当時、彼は些細な事件からヴィルヘルム2世と対立しました。ビスマルクはヴィルヘルム1世に見いだされた人で、プロイセンの宰相としてさまざまに尽力を重ねてきました。当時は19世紀の半ばですから、何よりもとにかく軍事力を強化しなければならないという風潮がありました。その中で、カトリックと社会主義者に対する引き締めや取り締まりの強化が言われ始めます。プロイセンは大きな意味でドイツに含まれますから、カトリックは当然主流ではありませんでした。
―― プロイセンは北のほうですからね。当時、ドイツは北のほうが…。
本村 北に行けば行くほどプロテスタントが強く、カトリックの支配下にはないというところがありました。それで結局、社会主義者やカトリックが、取り締まりの対象にされたわけです。ヴィルヘルム1世の期待に応えて、彼は軍事力を強化し、先ほども言ったようにフランスのナポレオン3世の軍隊を破ります。そして、やがてヴィルヘルム1世がドイツ帝国の皇帝位に就くことになるわけです。初代皇帝ですね。
●社会福祉政策を行い、軍事力を適度にとどめたビスマルク
本村 ビスマルクは、それを補佐していく立場にいました。社会主義を弾圧したと言われますが、彼はそれに代わるものとして世界史上初めての社会福祉政策を始めた人でもあります。そういうことは必要であり、社会主義だからやるというのではない、というわけです。その時の考え方では、国家の側から社会福祉的なものを考えるべきだと彼は打ち出していきました。それは、ある種「穏健な社会主義化」といってもいいと思うのですが、そういうことも行っているのです。
彼は、プロイセンの時代にはもちろん軍事力を強化していくことに邁進しましたが、いわゆるドイツ帝国になってからは、もうそれ以上の...