●55年体制の政治家は戦争を経験していた
カーティス もう一つ、55年体制の特徴について話します。この特徴が失われてしまったのは仕方がないことですが、僕が55年体制の中で選ばれた代議士と話すのが非常に面白かった理由の一つは、多くの人たちに戦前、戦中の経験があったからです。
ですから、1930年代の軍国主義下で、総理大臣が暗殺されたりするような時代の恐ろしさ、あるいは戦争の恐ろしさを身をもって分かっていた保守的な政治家は、“右寄り”と言っても、“右”の意味が今の“右”とは違います。中曽根康弘さんや後藤田正晴さんも皆そうです。そういう人たちは、リベラルの要素がとてもありました。
今、若い戦後生まれの“右”と言われる人たちの方が、かえって慰安婦のことで弁明したり、南京事件の被害者は30万人ではなくて4万人だけだったかもしれないと言ったり、また、日本は悪いことをしていないとか、他の国も悪いことをしているとか言ったりしています。そうしたことは、55年体制の頃の、戦前、戦中を経験した人たちには、とうてい言えなかったことです。
●リアリスト椎名悦三郎の謝罪が日韓国交正常化を実現させた
カーティス 一つ、面白いエピソードがあります。椎名悦三郎さんですが、彼は戦前、岸信介さんと仲が良かったのです。
──商工省の先輩(岸)、後輩(椎名)ですね。
カーティス そうです。二人とも満州国に行っていました。当時、革新官僚やアメリカ・イギリスの民主主義に反対する“右”の人たちが、まず満州国を理想的な国にし、それを日本に逆輸入しようとしていました。岸さんもその一人です。戦後になり、最終的には駄目になりましたが、彼らが満州国でやろうとしていた理想を最も理解し、また最もそれを実現しようとしていたのは、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)さんであると考えていました。ですから岸さんは、朴正煕さんを非常に高く評価し、朴さんが経済発展を重視してヘビーインダストリー(重工業)を産業の中心に据えたり、弾圧をして独裁政治を維持することを応援するのです。
1965年の日韓国交正常化の際は、椎名さんが外務大臣でした。椎名さんはずっと岸さんの子分的存在です。そして満州国について岸さんと同じように考えており、二人とも戦前はまるで民主主義的ではない考え方を持っていました。しかし、二人とも、非常にリアリスト、現...