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右は右でも違う! 日韓国交正常化を実現させた外相の謝罪

55年体制と2012年体制(3)戦争経験と右翼思想

情報・テキスト
椎名悦三郎
wikimedia Commons
中曽根康弘、後藤田正晴、岸信介、そして椎名悦三郎。55年体制には多くの“右”がいた。しかしそうした人々は、“右”であると同時にリベラルでもあった。ジェラルド・カーティス氏は、そこに今の日本の潮流との決定的な違いを見出し、警鐘を鳴らす。(全3話中第3話目)
時間:07:17
収録日:2014/11/18
追加日:2014/12/12
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≪全文≫

●55年体制の政治家は戦争を経験していた


カーティス もう一つ、55年体制の特徴について話します。この特徴が失われてしまったのは仕方がないことですが、僕が55年体制の中で選ばれた代議士と話すのが非常に面白かった理由の一つは、多くの人たちに戦前、戦中の経験があったからです。

 ですから、1930年代の軍国主義下で、総理大臣が暗殺されたりするような時代の恐ろしさ、あるいは戦争の恐ろしさを身をもって分かっていた保守的な政治家は、“右寄り”と言っても、“右”の意味が今の“右”とは違います。中曽根康弘さんや後藤田正晴さんも皆そうです。そういう人たちは、リベラルの要素がとてもありました。

 今、若い戦後生まれの“右”と言われる人たちの方が、かえって慰安婦のことで弁明したり、南京事件の被害者は30万人ではなくて4万人だけだったかもしれないと言ったり、また、日本は悪いことをしていないとか、他の国も悪いことをしているとか言ったりしています。そうしたことは、55年体制の頃の、戦前、戦中を経験した人たちには、とうてい言えなかったことです。


●リアリスト椎名悦三郎の謝罪が日韓国交正常化を実現させた


カーティス 一つ、面白いエピソードがあります。椎名悦三郎さんですが、彼は戦前、岸信介さんと仲が良かったのです。

──商工省の先輩(岸)、後輩(椎名)ですね。

カーティス そうです。二人とも満州国に行っていました。当時、革新官僚やアメリカ・イギリスの民主主義に反対する“右”の人たちが、まず満州国を理想的な国にし、それを日本に逆輸入しようとしていました。岸さんもその一人です。戦後になり、最終的には駄目になりましたが、彼らが満州国でやろうとしていた理想を最も理解し、また最もそれを実現しようとしていたのは、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)さんであると考えていました。ですから岸さんは、朴正煕さんを非常に高く評価し、朴さんが経済発展を重視してヘビーインダストリー(重工業)を産業の中心に据えたり、弾圧をして独裁政治を維持することを応援するのです。

 1965年の日韓国交正常化の際は、椎名さんが外務大臣でした。椎名さんはずっと岸さんの子分的存在です。そして満州国について岸さんと同じように考えており、二人とも戦前はまるで民主主義的ではない考え方を持っていました。しかし、二人とも、非常にリアリスト、現実主義者でした。

 心の中でどう考えていたかは分かりませんが、戦後、岸さんも総理大臣になり、65年に椎名さんが外務大臣として訪韓交渉した際、日本が植民地時代にしたことを韓国に謝罪したのです。帰国後、日本で「なぜ謝らなければならないのか」と批判を受けましたが、彼は「とにかく何回謝ってもいいのです」「謝れば謝るほどいい、それが日韓関係をよくするために必要なことだ」と言ったのです。

 そのように、もともと極めて“右”の椎名さんが「謝ることは大事だ」という立場を取ったことは、非常に印象深いです。

── 立派な人ですね。本質がリアリストだから、よく分かっているわけですね。

カーティス 分かっていました。戦前は大川周明といった“右”のイデオロギーを持つ人たちに近かったのですが、やはりあの戦争を経て、これでは駄目だということが皆よく分かったのです。ですから、当時の自民党の中の“右”は、戦前の“右”とは違うのです。

 それが、今になって、自民党の中の若い人たちの中には、本当の“右寄り”の人が結構います。戦争を経験していないから、「日本はそんなに悪いことをしなかった」などと平気で言えるのです。
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