●55年体制当時の自民党は、生き生きとして強かった
自民党が勝って、野党は全く駄目で、当分、自民党が割れない限り、今の自民党政権が倒れて野党がまた政権を取るということは、非常に考えにくいです。一党支配がかなり長く続くと思います。一党支配といえば、やはり1955年につくられた自民党と社会党の体制、その後38年間にわたる自民党一党支配の歴史です。これを「55年体制」といいますが、今その55年体制に戻っていると、最近言われます。小沢一郎さんも、昨日そんなことを言いましたし、政治評論家や学者にも、そう言う人が結構います。
しかし僕は、55年体制に戻っているのではないと思います。これは下手をしたら、新しい「2014年」の体制が生まれた可能性がある。僕は最近、そのように考えています。
これは、数年を経てみないと分かりません。55年体制もそうでした。最初に「55年体制」という言葉が使われた時は、自民党と社会党の二大政党制を意味する「55年体制」でした。あの頃は、社会党の議席が少しずつ増えていました。そして、あれは確か石田博英さんが1960年頃に中央公論に有名な論文を書いたのです。彼が言ったのは、いろいろな統計を出して、「このままでいけば1968年か9年頃に社会党は政権をとる」ということでした。それが55年体制です。しかし、10年、20年経ってから、「いや、55年体制というのは一党支配の体制だったのだ」と言われるようになりました。
「2014年体制」が55年体制と似ているのは、一党支配という点です。しかし、それ以外は全然違います。一つ目の違いは、55年体制は、自民党の中に対立構造がありました。競争しあう、緊張感のある構造的なものがあったのです。いくつかの派閥が主流派を組み、他の派閥が反主流を組んで、その中には非主流派もいて、政権が行き詰まると党内で政権交代のようなことが起こり、たえず緊張感がある。平気で自党の総理大臣を批判したり、政策論争もしたり、パワーポリティクスもしたりという、それが自民党でした。それはもう、生き生きしていました。
二つ目の違いは、官邸に対して、党が強かったことです。議会に法案を出す前に、総務会が承認しないと出せませんでした。党が非常に強くて、党と官邸の緊張感がある。それが55年体制の一つの特徴でした。
今の自民党を見ていると、派閥もないでしょう。あったとしても言葉だけで、本当の派閥はないし、対立構造は何もありません。そして、党が官邸よりも強いのではなく、全く逆なことになってしまって、圧倒的な力は官邸にある。党の人たちは、官邸に対して批判的なことをなかなか言えない。
●日本政治の長所「草の根民主主義」の政治家がいなくなった
55年体制の特徴には、自民党のリーダーになるための訓練をする構造もありました。まず選挙で勝って、1年生議員が派閥に入る。派閥の親分が若い人たちをずっと見ていて、誰が本当に優秀で将来性があるかを見て、有望な人をまず政務官にしたり、あるいは調査会の部会長の仕事をさせたりして、だんだん上へ行く。そして大臣になり、党の三役になりと、総理大臣になる前に、いろいろな国の政府のことも、党のことも、全部一通り経験し、そして派閥という組織も運営する。こうした全部の条件がそろって初めて総理大臣になれる資格が得られる。そういう仕組みでした。
しかし、今はそのシステムが全く崩れてしまって、大臣も何も経験したことのない人がいきなり上に行きます。安倍総理だって、官房長官だけで、いわゆる大臣はやったことがありません。あれは非常に代表的な例です。
さらにもう一つ、55年体制時は中選挙区制度だったので、自民党の政治家は、必死で選挙をしないと、野党に負けるのではなく、同じ自民党の他の候補者に負けるという構造でした。そのため、ものすごく選挙民と密接な関係を持ちました。これが日本の草の根民主主義です。非常に密接な関係を持って、有権者の悩みも希望も全部よく聞き、25~30パーセントの票さえ取れば当選できるため、30パーセントの有権者のことを一人ひとり実に大事にして、後援会組織をつくって、いろいろな形で世話をする。欠点もありましたが、日本の場合、基本的にとてもいい制度なのです。
僕は、こういうやり方、こういう制度はすごくいいと思って、『代議士の誕生―日本式選挙運動の研究』(1971年)という本に、そのように書きました。今の小選挙区制だと、半分以上、要するに51パーセントの支持を得ないといけないので、特定の選挙民のことでなく、一般的に、全部の有権者の票を取ろうとすることになります。そうすると、具体的な政策ではなく、党のイメージとか、選挙民とあまり関係ない話をするのです。それで、だんだん選挙民と候補...
(ジェラルド・カーティス著、山岡清二翻訳、サイマル出版会)