●佐渡に流された日蓮の重要な著作『観心本尊抄』
―― それでは実際に日蓮が書いた文章を見てまいりたいと思います。まず『観心本尊抄』というものですが、これはどのような位置づけのものでしょうか。
賴住 これは日蓮が佐渡に流されたときに書いた著作で、日蓮の著作の中でも非常に重要なものだと言われています。日蓮の思想の哲学的な部分や理論的な部分を深めていった著作になるかと思います。
―― では、さっそく読ませていただきます。
〈経に云はく『我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶(いまなお)未だ尽きず。復(また)上の数に倍せり』等云云。我等が己心の菩薩等なり、地涌(じゆ)千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。
(中略)
妙楽大師云はく『当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称(かな)うて一身一念法界に遍し』等云云。〉
賴住 かなり読みづらい難しい部分だと思いますが、少し解きほぐして、お話をさせていただきたいと思います。
●久遠の仏とつながるわれわれの心
賴住 まず「経に云はく」というのは、法華経のことです。法華経の中の言葉を挙げて、その後で日蓮がご自身の解釈をつけているところです。最初の「我」は釈尊が自分で自分のことを言っている、そのような部分です。
釈尊という方は、歴史的には紀元前6世紀あたりに生まれ、80歳の生涯を終えて亡くなられた、つまり80年の寿命を生きた方だと考えられています。その「寿命」は一般には有限で80歳と思われているけれども、本当はそうではないといっています。「今猶未だ尽きず」ということで、実は無限の命を生きているということです。
釈尊は人々には「生きて、死ぬ」という姿を見せ、80歳で亡くなられた。それは釈尊がいつまででも生きているとみんなが安心してしまい、ちゃんと修行しないから、そのために「死んでしまう」という姿を見せたのだけれども、それは仮の姿である。「未だ尽きず」といわれているように、実は「久遠実成(くおんじつじょう)」と呼ばれる無限の寿命を持っているということです。
「久遠」=永遠のことで、「実成」は真実の実に成ると書きます。釈尊=仏というのは永遠の昔から生き続けている存在であるということを、ここで法華経では言っているわけです。
その言葉を受けて、日蓮が「我等が己心の菩薩等なり」といいます。ここでいわれる「仏」をどう考えていけばいいのかというと、自分の「己心」=私たち人間一人ひとりの心が菩薩と等しい。要するに、私の心は菩薩の心につながっている。心というと、私たちは自分一人で閉じているように思うかもしれないけれども、菩薩とつながっている。また仏=釈尊とつながっていると捉えるのです。
これは、前にお話しした(道元の)「自他一如」のような考え方、また、「空ー縁起」の考え方、そういうものに基づいていると考えられます。
次に「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」とあります。「地涌千界の菩薩」というのは、法華経に出てくる「地から菩薩が湧いてくる」という表現を踏まえていっています。それは「己心(私の心)」とつながっている釈尊の眷属(親戚)であるということです。要するに、釈尊も法華経に出てくる地涌の菩薩も、自分の心とつながったものであるといっています。
●「自他一如」「空ー縁起」にも通じる「一念三千」
賴住 (少し飛ばした後に)「妙楽大師」とあります。これは湛然という方で、中国天台宗を確立した天台智顗(ちぎ)という方の後の時代に生まれ、天台智顗の教えをさらに受け継いで展開した方です。天台智顗や湛然の著作を日蓮は非常によく研究されていました。その湛然の言葉を引いて、「自分もこのように考えている」と表現しているところです。
ここに「身土一念の三千なり」とあります。「一念」は一つの心で、一つの心が三千に分かれる。三千は全世界で、ありとあらゆるものをカテゴリー分けして三千といいますから、「全世界のあらゆる全存在」と言い換えてもいいと思います。「私のこの一つの心は、世界のあらゆるものとつながりあっている」ということで、湛然の「一念三千」という言葉を引いて、そう表しています。ですから、自分の心が釈尊なり地涌の菩薩とつながっているということを、ここでは「一念三千」という言葉で説明しているということになると思います。
最後の「故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉ですが、「成道の時」は「悟りを開いたとき」ということで、「本理」というのは「一念三千」の考え方です。
それに基づいて、「一身一念法界に遍し」ということで、「一身」は自分のこの身、「一念」は自分のこの心、「法界」は真理の全体世界のことです。一身一念が...