●画家と画商を取り巻く当時の景気の影響
モネは印象派の代表選手のようにいわれています。第4回の印象派展までは出品していました。実際のところ、第3回まで出して、第4回には出品しないつもりだったのです。ところが、説得を受けまして、第4回にも出品しています。なぜでしょうか。第4回の年にはサロンに出品しようと思っていたのです。その第4回の年だったと思います。
印象派の仲間の1人、ドガが印象派展に出品する人間はサロンに出品しないことにしようと取り決めを決めてしまいます。
第4回展で、モネは説得されて出品したのですけれど、仲閒のルノワールもシスレーも出品をやめてしまいます。特にルノワールはその後サロンで成功を収めます。
1877年、この作品が描かれ、そして、先ほどモネの《印象、日の出》を買ったエルネスト・オシュデが破産しましたという話をしたと思いますが、1878年には画商のデュラン=リュエルもモネから作品の購入をストップしていました。本当に景気が悪くなったのです。デュラン=リュエルも、エルネスト・オシュデに売ることで作品を換金していました。
景気の、不況をもろにかぶってしまったモネは、パトロンは破産しますし、画商は買ってくれなくなりました。どうしてもサロンで作品を世に広めて、知らしめて売るということを選びたかったと思うのですけれど、この第4回の年は我慢して印象派展に出品をしています。そのうちの1点がこの《サン=ラザール駅》です。何点も描いているうちの1つです。こういった代表的な作品を出品することになります。
●アピールの場としての印象派展
どうでしょうか。印象派というと、サロンには出品しない画家、しかも前衛的な表現であって、反アカデミーの集まりであるというようなイメージだったと思います。マネはどういう立場なのかと思われる方も多かったと思います。
なにしろ日本で「印象派と何々」展にマネは出てきますし、さらにマネとポスト印象派などという展覧会も1910年に開催されており、マネの立場は本当に微妙ですけれど、マネこそが(展覧会に出品していなかったが、)印象派です。...