●戦後20年間国交がなかった日韓
―― 若宮さんは、朝日新聞の中で初めて韓国に留学され、ハングルを学ばれ、かつ、韓国のテレビに出演して討論までされるという、日本の知識人の中では例外的な人だと思います。しかも、軍事政権から始まって、日韓関係をずっと長い間見守られ、若宮さんほど文脈を見てこられた人はいないと思うのです。ちょうど今年は日韓条約50年ですので、そのあたりからお話しいただければと思います。
若宮 今、過分なお言葉をいただきましたが、私が初めて韓国に行ったのは1979年で、朴正煕政権時代の最後ですから、そんなにものすごく古いわけではないです。それから、全斗煥大統領の頃の1981~82年に1年間留学しています。
実は、誤解されている方も多いのですが、私はソウル特派員をやったことがありません。よく、韓国通だ、とも言われますが、そういう意味では、韓国のことを本当にいろいろと知っているわけではないのです。ただ、政治部に在籍して外交を見てきましたし、留学等々を機会にいろいろなお付き合いも若干あったということで、日韓関係に関しては、ずっとウォッチしてきたという自負がありますし、それを著書などにも書いています。
そういう意味で、少し総ざらいをすると、本年は日韓国交正常化から50年です。そして、戦後70年ですから、戦後20年目にして初めて国交ができたということです。つまり、植民地解放から20年も国交がなかったということです。今、考えると、少し信じ難いですね。
この間に李承晩ラインが敷かれ、竹島が韓国側に行って、李承晩ラインを越えると漁船がずいぶん拿捕されたなどというのが、私の子どもの頃の記憶です。それはある程度整理されたのですが、交渉に14年もかかって、ついに1965年に国交正常化できたわけです。
●第1期は軍事政権時代~反共で手を結んだ日韓
若宮 それで、私なりにこの50年について考えてみると、国交正常化前を含めれば四つの時期になりますが、正常化以降を三つの時期に分けるのが一番分かりやすいと思っています。大きく分ければ二つです。
第1期は、条約ができて、民主化が達成されるまでの軍事政権の時代です。朴正煕政権時代に条約ができますが、当時の韓国では日韓国交に反対する世論が渦巻いて、もう今の比ではないほどのものすごいデモが起こりました。ソウルのメインストリートが本当に人でうずまり、それも学生服の人たちばかりだったので真っ黒になりました。そこで、軍事政権は非常戒厳令を敷き、軍隊は出動しませんでしたが、抵抗すれば皆、捕まえると、制圧に乗り出しました。そうした中で条約ができたのです。
なぜそんなに反対したかというと、一つは、日本が明確に謝罪をしていなかったからです。確かに、条約には謝罪や反省の文言がありません。唯一、条約ができる前に椎名悦三郎さんという当時の外務大臣が韓国に行って、空港で「不幸な期間があったことは、誠に遺憾な次第でありまして、深く反省する」というような声明を出しました。これは「お詫び」ではなく「反省」まででしたが、それでもものすごく役に立ちました。しかし、条約の文言にはそのような言葉が一つもないのです。
それから、植民地支配について、韓国側は、併合条約は当初から不法であり、無効だということを認めろと言いますが、日本側は、いや、そうは言っても条約があったことは曲げられないと言います。ですから、「戦後は無効になった」ということで、「もはや無効」という言葉を使い、玉虫色で妥協をするのですが、そういうことも気に食わないのです。
従って、賠償も取れないのです。日本側は、かなりの額を出すのですが、これは新しい国に対する経済協力だ、という形にするのです。しかし、韓国側は、賠償的なものと受け止めるということで合意したのですが、それも屈辱的だというのです。ですから、金のために全て我慢する土下座外交ではないか、屈辱外交だ、ということで反対したのです。
日本側も、野党をはじめ、当時の総評(日本労働組合総評議会)などは大反対したのですが、これは理由が全然違っていて、相手が南半分の軍事政権だということです。当時は、北朝鮮の拉致問題などはなかった頃ですし、社会党は北と関係がありました。南半分と条約して、軍事政権にテコ入れするのはけしからん、と言って反対したのです。
しかし、条約は何とか結ばれました。日本側は強固で反共の自民党政権です。つまり、お互いが反共ということで手を結び、嫌なところに目をつぶったのです。韓国からすれば、謝罪や反省が足りないのは我慢ならないけれど、背に腹は代えられない。このお金で立派に経済成長しよう、あるいは、同盟ではないけれど、アメリカを媒介にしたある種の緩やかな関係をつくろう、というこ...