中国の春秋戦国時代、東方大平原には多くの小さな都市国家が並存し、経済的・文化的に繁栄していた。互いに独立独歩で競いあえるこの環境こそが、後に中華文明の核となる「諸子百家」を育む土壌となった。周王の権威が衰える中で覇権を握った「春秋五覇」などの大国も、こうした小国家群の存在を無視することはできなかった。例えば、最初の覇者である斉の桓公が結んだ「葵丘(ききゅう)の盟」では、黄河の治水規律などを通じて小国と共存する姿が見られる。大国だけでなく豊かな小国家群の視点から、高度な文明が花開いた時代のダイナミズムを、鶴間氏の現地調査での情景紹介も交えて解き明かす。(全9話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●小都市国家をめぐった孔子の放浪の旅
―― 例えば、『論語』の孔子の話などを読んだりしますと、ある意味、周の理想的な姿を「政治の理想」だと謳っているという話もありますが、孔子から見ると周の何が政治の理想なのですか。
鶴間 そこで、先ほどもう一つ大事なことを言い忘れているのですけれど、この平原(東方大平原)には、実は小さな都市国家がたくさん生まれました。
―― 都市国家ですね。
鶴間 ええ。こちらの山間部は、限られた盆地にしか(都市が)生まれないのですけれど、ここ(東方大平原)はどこにでも都市が生まれるのです。
そうすると、春秋時代には、たくさんの小さい国家群がここに生まれました。これはすごく大事なことです。
孔子の目から春秋時代を見たほうがいいということですけれど、孔子はもともと宋という国の血筋です。宋は小さい国なので、(孔子は)魯に仕えました。魯に仕えたのですけれど、隣は斉という大国です。当時、春秋時代には大国があって、これが後に「春秋五覇」といわれました。ですから、東方に斉、北方に晋、西方に秦、南方に楚、それらは(いずれも)大国です。
でも、そういう国々ではない、小さな国々があり、その中に魯も入るのです。孔子は魯で仕官するのですけれど、そこで(起こった)一種の権力闘争に嫌気がさして、弟子を連れて14年間、いわゆる放浪の旅に出るのです。
どんな国に行ったのかといいますと、例えば衛という国です。それから、(曹操と同じ字の)曹という国です。それから、陳という国です。それから、蔡(さい)という国です。そういう国々に行くわけです。(ただ、)『論語』を読んでみると分かるのですけれど、あまり歓迎されていないのです。例えば、最後は陳と蔡の間で弟子たちと一緒にいて、何も食べるものがなくて、もう大変な目に遭ったと。
それは何かというと、実はそういう小さな国々に行って、自分が考える周の政治の理想を、大国ではなくて小さい国で実現しようというのが彼の目的です。おそらく(小さな国々では)肯定的に受け入れられたと思います。だから旅ができた。でも最後、陳と蔡の狭間で非常に危険な目に遭ったのは、陳と蔡は南の大国・楚を恐れていたからです。
孔子たちがもし南の楚に行ったら、自分たちは危ないのではないかと。孔子の実力を知っていますから。そこで彼らが楚に入らないように...